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Archive for the 'オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)' Category

次に大切なことは?  (6月8日)

『あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。』ヨハネ13:17
 
 あなたをつなぎ留めている錨の綱をあなたが断ち切らなければ、神が嵐でそれを切り、あなたを沖へ押しやらねばならないでしょう。神を全面的に信頼して、神のご計画の高波へと乗り出しなさい。そうすればあなたの目が開かれるでしょう。イエスを信じるのなら、港の中の穏やかな水面ばかりで過ごしてはいけません。喜びが一杯あるかもしれないけれど、それはいつも停泊した状態です。港の防波堤の中から神の大海へと出て行って、実際に経験してみなさい。そして霊的判断力を身に着け始めなさい。
 何かをするべきだと知っていて、それを実行するなら、即座にあなたは新しい事を発見します。霊的に怠惰になっている部分を修正してごらんなさい。するとそれはあなたがなにかしなければならないと知っていて、行わなかった事だったことに気がつくでしょう。それをすぐにしなければならない必要を感じなかったからかもしれません。そのために現在、霊的識別力、霊的洞察力が欠けています。なにか事が起こると平静さを失い、心を取り乱すのはそのためです。しなければならない事を知りつつ、それをせずにいるというのは危険なことです。
 偽りの従順とは、自分を犠牲にする機会を作り上げようとする心の状態のことです。熱心であることが霊的識別力と誤解されています。自分の霊的な目的を成就するよりも、自分を犠牲にする方が容易です。このことはローマ書12章1-2節に述べられています。多大な犠牲を払う行いをするよりも、神のみこころを識別してあなたの人生に対する神の目的を成就することの方がはるかに良い事です。「聞き従うことは、いけにえにまさる」(サムエル記第一15:22)のです。神があなたに新しい人になることを望んでいるときに、以前のあなたにもどろうとしないように気をつけなさい。「もし行うなら、…分かるでしょう。」

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難局にあたって立ちあがる習慣  5月15日(私訳)

『神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、…あなたがたが知ることができますように。』エペソ1:18-19

あなたが何のために救われたのか思い出してください。神の御子があなたの身体に宿るようになるためです。神の子として選ばれたことを明らかにするためにあなたの持てる力のすべてを傾けなさい。いつも難局にあたって立ちあがりなさい。
 あなたは救われるために自分で何かをすることはできません。でも救われていることを明らかにするために何かをしなければなりません。神が心の中に成し遂げてくださったことを外に現わすようにしなければなりません。あなたは自分の舌で、自分の頭脳で、自分の神経で救いを外に現わそうとしていますか。もしあなたが今でも以前と同じようにみじめで気難し屋で、自分の考えに凝り固まっているとしたら、神があなたを救い、聖(きよ)めてくださっているというのは嘘になります。
 神は「名監督」です。あなたが困難を正しく乗り越えられるかどうかを見るために、神はあえて困難をもたらされます。「私の神によって私は城壁を飛び越えます」(詩篇18:29)。神はご自分の息子、娘に要求されていることからあなたを隠すということは決してなさいません。「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむこと」のないようにしなさい、とペテロは語っています(Ⅰペテロ4:12)。難局にあたって立ちあがりなさい。行動しなさい。神があなたの身体の中にご自身を現わすチャンスとなるならば、試練によってどれくらいあなたが苦しむかは問題ではありません。
 神が私たちの中にこれ以上泣きごとを見出すことがありませんように。神が何をもたらされようとそれに立ち向かう霊的勇気、奮闘努力を見出すことができますように。神の御子が私たちの身体の中に現れるために自らを訓練しなければなりません。神は私たちを博物館の陳列品にされるのではありません。人生の唯一の目的は神の御子が現れるようになることです。すると神に指示しようとすることは消えてなくなります。主イエスは父なる神に指示されたことは一度もありません。私たちも神に指示するために生きているのではありません。私たちは神のみこころが私たちを通してなされるために、神のみ意志に服すために生きています。このことが理解できれば、神は私たちを裂かれたパンと注がれたワインとして、他の人々を養えるものにしてくださいます。

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この世で最も繊細な働き   (3月25日)

『花婿の友人。』ヨハネ3:29

 性質の良さとか心の聖さが人の注目を得るようであってはいけない。それらは単に人々の目をイエス・キリストに向けさせる磁石である。もし私の聖さが人々の目を主に向かわせていないなら、それは正しい意味でのホーリネスではない。過度な愛着を持たせて、たましいをわき道にそらせてしまう結果となる。もしイエス・キリストを現わさず、キリストがしてくださったことだけを人に示すなら、すばらしい聖徒も信仰の妨げとなる。「あの人はなんというすばらしい性質の持ち主だろう」という印象だけを残す。花婿の友人になるとはこういうことを意味していない。キリストではなく自分が盛んになっているのである。
 花婿との友情と誠実を保つためには、イエスとの生きた心の交わりを他のなによりも大切にすることにさらなる注意を払わねばならない。キリストに従うことよりも。時にはなにも従う必要のない時もある。交わりをさまたげるものが何もないことを確認するために、イエス・キリストとの生きた交わりを保つことだけが必要だという時がある。私たちが従わなければならないのは時たまである。危機が生じると神のみ意志を見出さねばならない。しかし、人生のほとんどは意識的な従順ではなく、花婿の友人としての関係を保つということにある。キリスト者としての奉仕がイエス・キリストに集中するのを妨げている場合がある。花婿の友人になる代わりに、神のみ意志をかってに考えだして、神の武器を用いて神のみ意志と反対のことをしている場合さえもある。

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夢想に対する神の働きかけ (2月20日)

『立ちなさい。さあ、ここから行くのです。』ヨハネ14:31

 ある事を正しく行うために思いを巡らすということは間違っていない。しかし、行動すべき時になお逡巡することは間違っている。主イエスが弟子たちにすばらしい事がらを語られた後で、弟子たちにそれらの意味を黙想してきなさい、と主が言われる事を私たちは期待するかもしれない。しかし主イエスは無為に過ごすことを決して許されたことはない。私たちが神のみ意志を知るために神に近づくとき、いろいろと思い巡らすことは間違っていない。しかし、私たちがなすべきことを聞いた後で、なおその事について逡巡することで時を過ごす傾向にあるとすれば、それは間違っており、神の祝福は決してそこにはない。神の働きかけは常にこのようなぼんやりと夢想する態度に一撃を加える性質を持っている。私たちが「座るのでもなく立つのでもなく、行く」ことを命じる一撃である。
 もし私たちが神のみ前に静まってみ心を求めていて、神が「あなたがただけで、寂しい所へ行」きなさいと言われるなら、それは神のみ心を見出す為の黙想の時である。しかし、神がすでに語ったのであれば、そのことについて単に夢想するようなことのないように注意しなさい。神をあなたのあらゆる夢と喜びと楽しみの源として、神の言われた事に従って出て行きなさい。もしあなたが誰かを愛しているなら、その人のことをいつまでも座って夢想するということはしないであろう。その人のために出かけて行って何かをするはずである。イエス・キリストが私たちに求めておられる事もまさにそれである。神が語られた後もぼんやりと過ごすとすれば、それは私たちが神を信頼していないということの徴候である。

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霊的粘り強さの訓練 (2月22日)

『やめよ。わたしこそ神であることを知れ。』詩篇46:10

 粘り強さというものは忍耐力だけではない。それは忍耐力プラス期待している事が必ず実現するという確信である。粘り強さとは逃げ出さないというだけのことではない。逃げ出さないというのは離れるのが怖いからという弱さを現わしているに過ぎないのかもしれない。粘り強さとは自分の主イエスの敗北を決して信じない至高の努力のことである。人の最大の恐れは地獄に落ちるかもしれないということではなく、イエス・キリストが敗北するかもしれないということである。つまりイエスがいのちをかけた愛とか、正義、赦し、人への思いやりなどが、最終的には敗北し、イエスがいのちをかけた事柄が幻影に見えるということである。霊的粘り強さが求められるのはまさにこの時である。ただ逃げ出さず、なにもしないというのではなく、神は敗北しないという確信に断固として立つことである。
 今この瞬間にあなたの希望や計画がだめになりそうであるなら、それはそれらがきよめられているということである。人の心が望み、夢見る高貴なことで成就しないものはなにもない。人生における最大の重圧は神を待つという重圧である。「あなたがわたしの忍耐について言ったことばを守ったから」と主から言われる者となりたい。
 霊的に粘り強い人となりなさい。

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人はなぜこれほどに無知であることに自信を持っているのだろうか(1月29日)

『主よ。あなたはどなたですか。』使徒26:15

「主は強い御手をもって…私にこう仰せられた」(イザヤ8:11)。主が語られるとき、人は逃れることはできない。主の御声は常に理解せざるをえない形で来る。神の御声が直接あなたに臨んだことがあるだろうか。もしあるなら、あなたが最も良く知っている言葉でそれが語られ、神の親密で強い主張を聞き間違えるということはない。あなたの耳を通してというのではなく、あなたを取り巻く状況を通して語られるのである。
 神は私たち自身の信念に対する強い自信を先ず壊さねばならない。「私のなすべきことはこれだ」と思う時、私たちの無知の深さを暴露し、私たちを圧倒する形で、突然神の御声が語られる。神に仕えるのに私たちが決めてかかったまさにそのやり方において、私たちは神についていかに無知であるかを現わしている。私たちはイエスの精神ではない精神でもってイエスに仕えようとする。私たちはイエスのために代弁しようとしてイエスを傷つけている。私たちは悪魔の精神でイエスの教えを押しつける。私たちの言葉は正しいかもしれない。しかし精神は悪魔の精神である。「あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです」(ルカ9:55異本)と主は言われた。イエスの精神を代弁するときの精神はコリント第一の手紙13章に述べられている。
 私は自分のやり方でイエスに仕えるという熱い意志の強固さで、実はイエスを迫害しているのではないだろうか。もし私が自分の義務を成し終えて、しかもそれを行うことでイエスを傷つけたとするならば、それは自分の義務ではなかったと考えてよい。なぜならその行いはへりくだった静かな心を養っていたのではなく、自己満足の思いを抱いていたのだから。私たちはどんなことでもやりたくない事が自分の義務だと思ってしまう!しかし「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)という主のお心にそれは近いものだろうか。

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神のご性質から出るみ声  (1月16日)

『私は、「だれを遣わそう。…」と言っておられる主の声を聞いた…。』イザヤ6:8 

 神の呼びかけということを語る場合、私たちは大変重要な局面を忘れやすい。すなわち、呼びかけられるお方のご性質という局面である。海には海の呼びかけがあり、山には山の呼びかけがあり、氷壁には氷壁の呼びかけがある。しかし僅かの人だけがこれらを聞くことができる。呼びかけとはそれが発せられるものの性質の表現である。そしてその呼びかけを記録できるのは同じ性質が私たちの中にある時に限られる。神の呼びかけとは神のご性質の表現であって、私たちの性質の表現ではない。私たちのために摂理的に起こる一連の神の呼びかけというものがあり、私たちは気付くが他の人はだれも気付かないことがある。それはある具体的な事柄の中で私たちに届く神の声であるから、他の人に相談しても役に立たない。私たちはそのような深い関係を私たちのたましいと神との間で保たねばならない。
 神の呼びかけは私の性質が反映したものではない。私の嗜好とか気質とかは関係ない。自分の気質を考慮して自分が何に向いているかを考えている限り、神の呼びかけを聞くことは決してない。しかし、神との関係の中に導き入れられると、イザヤと同じ境遇に入る。イザヤのたましいは彼の経験した途方もなく大きい危機を通して神と十分調和していたので、驚くべきことに彼は神の呼びかけを書きとめることができた。ほとんどの人は自分の言うこと以外聞く耳を持たないので、神の語られる事は全く聞くことができない。神の呼びかけを聞く領域に導き入れられるということは、徹底的に変えられるということである。

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救いは渇きを創造し、かつ満たす (12月17日)

『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。』1コリント2:14
 
 神の福音は福音への渇きを生み出す。「それでもなお私たちの福音におおいがかかっているとしたら、それは」ならず者に対して「おおいが掛っているのです」とパウロは言っただろうか。そうではない。「この世の神が不信者の思いをくらませ」ており、「滅びる人々」に対して言っている。ほとんどの人は自らが到達可能な範囲内の道徳心しか持ち合わせていない。福音に対する渇きを感じないのである。神がご自身を啓示されるまでは人の意識に上らない渇きを生み出すのは神である。「求めなさい。そうすれば与えられます」とイエスが言われたように、人が求めるまでは神は与えることができない。神が人の求めに応えないというのではなくて、神は「救い」を土台として物事を構成されたのである。求めることによって、それまでは存在しなかったものを神が創造する働きを始められるのである。「救い」の内なるリアリティとは絶えず生み出すということである。「救い」が神のいのちを私たちの心の中に生み出すように、そのいのちにつながる様々なものを創造するのである。渇きを呼び起こすお方以外に、渇きをいやすことのできるお方はいない。これが「救い」の意味である。神は創造し、かつ満たすのである。
 「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」私たちは自らの経験を語る。そして、人々は関心を持つ。しかし、渇きは呼び起こされない。ひとたびイエス・キリストが引き上げられるなら、神の御霊が神への渇きを意識する人を創造するのである。福音を宣べ伝える背後で、神の創造的な「救い」が人々の心の中で働くのである。人を救うのは決して個人的な信仰の証しではない。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

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浅いこと、深いこと  (11月22日)

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』1コリント10:31

 日常の浅く表面的な関心事は神によって授けられているものではないと考えてはいけない。深刻な事柄と同じように神によって授けられているものである。深みのない人間になりたくないと思うのは、あなたが神に対して献身しているからではない。浅はかな人間ではないぞということを他人に印象づけたいからである。そうすることはあなたが霊的にものしりぶった人であることの確かなしるしである。心の中に人を軽視する気持ちが生じないように注意しなさい。霊的高ぶりは常にこのような気持から出てくる。そして、他人があなたより浅いからという理由で、いたるところで他人を非難する人間になる。深みのある人間だというポーズを取らないようにせよ。神は「赤子」になられたのだから。
 浅いということは悪であるという印ではない。浅いからといって深いところがないわけでもない。海には岸辺もある。食べることとか飲むこと、歩くこととかしゃべることといった、生活を楽しくさせるちょっとしたことは、すべて神によって与えられたことである。主イエスはこういったことの中に生きておられた。主は神の御子としてこういったことの中に生きられた。その主が「弟子はその師にまさらない」と言われたのである。
 浅い事柄の中に私たちを守ってくれるものがある。私たちは表面的で常識的な日常を常識的に生きる必要がある。深い事柄がやってくるとき、神はそういった事がらを日常の浅い関心事とは別に私たちにもたらされる。深みを神以外の誰にも見せるな。私たちはあまりにも深刻で、自分の評判にあまりにも極端な関心を持っているため、日常の浅い事柄においてキリスト者として振舞おうとしない。
 神以外はだれをも深刻に受け止めないと心に決めなさい。そしてあなたがかつて知り得た最悪のぺてん師として関係を持たないようにすべき最初の人間は――あなた自身である。

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信仰による義認  (10月28日)

『もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』ローマ5:10

 信じることによって救われるのではない。信じることによって救われていることに気がつくのである。悔い改めが私を救うのではない。悔い改めとは、神がイエス・キリストにあって何をしてくださったかに私が気づいたことのしるしである。原因にではなく結果を強調しようとする危険がある。私の従順、私の献身によって神と正しい関係になると考えてしまう。とんでもない!神と正しい関係になれるのは、なによりも先にキリストが死んでくださったからなのだ。私が心を神に向け、私が受け入れられる神の啓示を信仰によって受け入れるとき、即座にイエス・キリストの驚くべき贖(あがな)いが私を神との正しい関係の中に入れてくださる。そして神の恵みの超自然的奇跡によって私は義とされた者となる。私が自らの罪を詫びたからではない。私が悔い改めたからではない。イエスがしてくださったことのゆえにである。神の御霊がそれを圧倒的なあふれる光と共にもたらし、どのようにしてか分からないが、自分が救われていることを知るのである。
 神の救いは人間の論理に基づくものではない。それはイエスの犠牲的死に基づくものである。私たちが生まれ変われるのは主の贖(あがな)いのゆえである。罪人が新しい被造物に変えられるのは、悔い改めによるのでもなければ信仰によるのでもない。すべての経験に先行するキリスト・イエスにある神の驚くべきみわざによるのである。義認と聖化のゆるぎなき土台は神ご自身である。これらのことを自分の力で達成する必要はないのだ。「贖(あがな)い」によってすでに達成されたのである。超自然的なことが神の奇跡によって自然なことになるのである。イエス・キリストがすでに成し遂げてくださったこと、「完了した」と言われたことが何か分かるようになるのである。

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