The Website of Hitoshi "Paul" FukuePosts RSS Comments RSS

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  • http://kaganoi.com

  • 2015年11月より、加賀野井教会のホームページが新しくなり、URLが下記に変わりました。
    新しいサイトでは、牧師の小窓や説教映像もご覧いただけるようになりました。

  • 今後は、新しいこちらのURL( http://kaganoi.com )にて更新を行って参りますので、こちらをブックマーク登録してご利用ください。

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ひるむことのない輝き (3月7日)

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』ローマ8:37

 パウロは聖徒を神の愛から引き裂く可能性のあるものについて語っています。しかしすばらしいことに、神の愛と聖徒との間を引き裂くことのできるものは何もありません。(35節から39節に書かれてある)これらのものは人のたましいの霊的活動と神との間に割り込んで来る可能性のあるものです。しかしこういったものはいずれも神の愛と聖徒のたましいの間を引き裂くことはできません。私たちのキリスト信仰の根本はカルバリの十字架で示された一方的な、計り知れない驚くべき神の愛であります。私たちが今もまた将来も決して受ける資格のない愛であります。ですからパウロが私たちはこれらすべての中にあっても、圧倒的勝利者となると言っています。私たちを押し倒してしまいかねない事がらがなければ持つことはないであろう喜びを持つ最高の勝利者なのです。
 普通の泳者を悩ます波も、サーファーにとってはその波をうまく乗りこなす大きな喜びを与えてくれます。このことを私たちの状況にあてはめてみてください。患難、苦しみ、悩み、迫害、こういったものは私たちに大きな喜びをもたらします。こういったことがらは闘うべきものではありません。これらすべての事の中にあっても、キリストによって私たちは圧倒的な勝利者なのです。これらがあるにもかかわらず、ではなくて、これらのただ中にあってです。聖徒は患難にもかかわらず主の喜びを持つということはありません。患難のゆえにこそ喜びを持っているのです。「私は…どんな苦しみの中にあっても喜びにみちあふれています」(2コリント7:4)とパウロは言っています。
 ひるむことのない輝きは過ぎ去って行くものの上にではなく、なにものも変えることのできない神の愛の上に築かれるのです。生きて行く上での経験、それがひどいものであろうと、退屈なものであろうと、どんな経験も、私たちの主イエス・キリストの中にある神の愛に影響を与えることはできません。

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Arise, Come Along

This is a sermon preached at a Filipino Fellowship in Noichi, Kochi Pref on Feb. 19, 2012. Hope you enjoy hearing this inspirational message. Pastor Paul Fukue

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人を偏り見ない神        (12月8日)

『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』ヘブル10:14
 私たちが赦されているのは、私たちが自らの罪を悔いているからだともし考えるとすれば、私たちは神の御子の血を踏みにじることになります。神の赦しと神の忘却という計り知れない深遠さを説明できるものはただイエス・キリストの死のみです。悔い改めとはキリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いに気がついた結果にすぎません。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖(きよ)めと、贖(あがな)いとになられました」(1コリント1:30)。キリストが私たちにとってこれらすべてとなってくださったことに気づく時、神の計り知れない喜びが始まります。神の喜びがない所ではどこでも、死の宣告がなされているのです。
 私たちが誰であるか、何をしている人であるかは関係ありません。イエス・キリストの死によって、そしてそれ以外のなににもよらず、神の中へと完全に復帰できるのです。イエス・キリストがそのように祈られたからではなく、キリストが死なれたからです。神の赦しを私たちは自分の努力で勝ち取るものではなく、受け取るだけなのです。十字架を意図的に認めない祈りはなんの役にも立ちません。自分の努力で神の赦しを勝ち取ろうとすることは、イエスが開いてくださった扉ではなくて、別な扉をたたいて開けようとしているようなものです。罪人としてキリストに受け入れてもらうのはあまりにも屈辱的だから、その扉からは入りたくない、と言われますか。「この御名のほかには、・・・与えられていない」(使徒4:12)のです。神のお心が狭く見えるところにこそ実は神の真の愛があるのです。神に至る道への入り口は計りしれず広いのです。「キリストの血によって私たちは赦されているのです。」イエス・キリストの死と結ばれるとは、キリストの中には存在しないすべてのことに対して、キリストと共に死ぬという意味です。
 悪人を救って善人にするところに神の働きがあります。主イエスは私たちに罪があるのに、それでいいのだという見せかけはしません。贖いとは、神がイエスの死を通して聖(きよ)くない人を聖(きよ)い人に変える贖罪のみわざのことです。

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高知市民クリスマスのご案内

2011年12月16日(金)午後7時より、高知県民文化ホール(グリーン)にて、青森で「森のイスキア」を主宰しておられる佐藤初女氏をお迎えして、高知市民クリスマスを開催します。チケットは一部500円。高知市内の諸教会で取り扱っています。子供たちによるハンドベルクワイアと共に、佐藤初女さんのすばらしい講演をお楽しみください。

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自 我           (12月11日)

『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て…。』マタイ16:24

 自我は人格を包んでいる殻です。自我には角(かど)があり他から分離し孤立します。自我は子供の特徴であり、それでいいのです。しかし、もし自我を人格と取り違えると、私たちは孤立し続けるでしょう。自我という殻は人格を守るために神が造られた覆いのようなものです。やがて成長と共に人格が現れて神との交わりを持つようになるために、自我は無くなっていかねばなりません。欲望が愛のふりをするように、自我は人格のふりをします。神は人間の性質をご自身のためにお造りになりました。自我は人間の性質を卑しいものにします。
 自我の特徴はひとりよがりと自己主張です。私たちの霊性を妨げるものは、なによりも絶えざる自我の主張です。「信じることができない」と言うのは、自我が妨げているからです。自我は決して信じることができません。しかし人格は信じずにはいられないものです。聖霊が働かれている時に、注意して自分を観察してごらんなさい。聖霊はあなたを自我の限界にまで追い詰めます。そこであなたは聖霊を拒否するか、それとも自我の殻を破り人格が現れるように自我を明け渡すかのどちらかです。聖霊は常に一つのことに絞り込んで来られます(マタイ5:23-24を参照)。兄弟と和解しようとしない心が自我です。神はあなたと一つになることを願っておられます。しかし、あなたが自分の権利を明け渡そうとしない限り、神と一つになることはできません。「自分を捨て」というのは、自らのひとりよがりの権利を捨てるということです。そうすれば真のいのちが成長することができるようになります。

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神のみこころは私の願いであろうか  (10月20日)

『神のみこころは、あなたがたが聖(きよ)くなることです。』1テサロニケ4:3
 神が私を聖(きよ)くしてくれるだろうか、ということが問題ではありません。問題は聖(きよ)くなることを私が願っているかどうかなのです。キリストの贖罪で達成されているすべてのみわざが、私の身の上に成就することを神に求めているでしょうか。イエスが私にとって聖化となり、イエスのいのちが私のこの朽つべき身体に顕れることを望んでいるでしょうか。「ええ、私は聖(きよ)くされることを慕い求めています」と言わないようにしてください。実際のところ慕い求めていないのです。慕い求めることを止めて、「私にはなにもささげるものはありません」と言って、契約を取り結ぶことだと考えてごらんなさい。
あなたにとってイエス・キリストが聖となるように絶対的信頼をもってキリストを受け入れなさい。そうすれば、イエスの驚くべき「贖罪」があなたにとって現実のものとなります。イエスが成就してくださったすべてのことが、イエスがなされたみわざを土台として、神の一方的な愛の贈り物によって私のものとなります。救われ聖(きよ)められた私の心は真に謙虚なホーリネス(聖さ)となります。(誇り高きホーリネスというものは存在しません)。このホーリネス(聖さ)とは、苦悩を伴う悔い改めと言葉にできない恥と汚れに根ざしており、同時に私がキリストについてなにも考えていなかった時に、キリストは私の救いと聖化のためにすべてを完成してくださっていた、神の愛が私に託されていた、という驚くべき気づきに根ざしています。キリストは私の救いと聖化のためにすべてを成就してくださいました(ローマ5:8英改訂版を参照)。どんなものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)とパウロが言うのもふしぎではありません。
 聖化が私をイエス・キリストと一つに結び付けてくれます。そしてキリストにあって神と一つに結ばれます。それはキリストのすばらしい贖罪によってのみなされることです。結果を原因と混同しないでください。私の中に生じる結果は従順と奉仕と祈りです。贖罪によって私の中に生み出された驚くべき聖化に対する言葉にならない感謝と賛美の結果であります。

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キリストのところに       (10月8日)

『わたしのところに来なさい。』マタイ11:28

イエスのところに行きなさい、と言われる事は侮蔑的に聞こえるでしょうか。イエス・キリストのところにあえて行くまでもないと思うのではないでしょうか。あなたという人間がどれくらい本物かを知りたければ、「わたしのところに来なさい」という言葉で試してみてください。あなたが本物でない分だけ、イエスのところに行くよりもむしろ無益な口論をし、悲しむことを選ぶでしょう。「あるがままで」イエスのところに行くような全く愚かなことをするくらいなら、それ以外のことを何でもすると思ってはいませんか。あなたがほんのわずかな霊的高ぶりでも持っている限り、神があなたに「来なさい」とだけ言っているにもかかわらず、何か大きなことをするようにと神があなたに言われるのを期待しているという事実の中に、あなたの霊的高ぶりが露呈することでしょう。
 「わたしのところに来なさい。」この言葉を聞くとき、あなたがイエスのところに行く前にあなたの中で何かが起こる必要があることに気がつくでしょう。聖霊があなたのなすべきことを示してくれます。あなたがイエスのところに行くことを妨げている事がらの根っこを切り離す何かを示してくれるでしょう。あなたがその具体的なことについて何かをしようとしない限り、前に進むことはできません。聖霊がその難攻不落の事がらをあなたの中に見つけます。しかし、あなたがそれを神に解決していただきたいと願わない限り、神はそれを動かすことができません。
 神に願い事を携えて来て、「今度こそは願いがかなうぞ!」という思いになったことがいく度あったでしょうか。しかし、実際は何も得ていないのです。神はずっと両手を広げてあなたを抱きしめるだけでなく、あなたにも抱きしめてもらいたいと待っておられるのです。「わたしのところに来なさい」と言われるイエスの不朽不屈の忍耐を考えてみてください。

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『主が聖であられるように』W.M.グレイトハウス著、福江等訳

Wholeness in Christ: Toward a Biblical Theology of Holiness

福江等牧師の訳書

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加賀野井教会創立記念コンサート 9月25日(日)10時半より

Vocal & Piano Harmony

加賀野井教会創立38周年記念チャペルコンサート

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