Hitoshi on 12月 8th 2011 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』ヘブル10:14
私たちが赦されているのは、私たちが自らの罪を悔いているからだともし考えるとすれば、私たちは神の御子の血を踏みにじることになります。神の赦しと神の忘却という計り知れない深遠さを説明できるものはただイエス・キリストの死のみです。悔い改めとはキリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いに気がついた結果にすぎません。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖(きよ)めと、贖(あがな)いとになられました」(1コリント1:30)。キリストが私たちにとってこれらすべてとなってくださったことに気づく時、神の計り知れない喜びが始まります。神の喜びがない所ではどこでも、死の宣告がなされているのです。
私たちが誰であるか、何をしている人であるかは関係ありません。イエス・キリストの死によって、そしてそれ以外のなににもよらず、神の中へと完全に復帰できるのです。イエス・キリストがそのように祈られたからではなく、キリストが死なれたからです。神の赦しを私たちは自分の努力で勝ち取るものではなく、受け取るだけなのです。十字架を意図的に認めない祈りはなんの役にも立ちません。自分の努力で神の赦しを勝ち取ろうとすることは、イエスが開いてくださった扉ではなくて、別な扉をたたいて開けようとしているようなものです。罪人としてキリストに受け入れてもらうのはあまりにも屈辱的だから、その扉からは入りたくない、と言われますか。「この御名のほかには、・・・与えられていない」(使徒4:12)のです。神のお心が狭く見えるところにこそ実は神の真の愛があるのです。神に至る道への入り口は計りしれず広いのです。「キリストの血によって私たちは赦されているのです。」イエス・キリストの死と結ばれるとは、キリストの中には存在しないすべてのことに対して、キリストと共に死ぬという意味です。
悪人を救って善人にするところに神の働きがあります。主イエスは私たちに罪があるのに、それでいいのだという見せかけはしません。贖いとは、神がイエスの死を通して聖(きよ)くない人を聖(きよ)い人に変える贖罪のみわざのことです。
Hitoshi on 11月 19th 2011 最近のイベント情報
2011年12月16日(金)午後7時より、高知県民文化ホール(グリーン)にて、青森で「森のイスキア」を主宰しておられる佐藤初女氏をお迎えして、高知市民クリスマスを開催します。チケットは一部500円。高知市内の諸教会で取り扱っています。子供たちによるハンドベルクワイアと共に、佐藤初女さんのすばらしい講演をお楽しみください。
Hitoshi on 10月 27th 2011 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳),未分類
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て…。』マタイ16:24
自我は人格を包んでいる殻です。自我には角(かど)があり他から分離し孤立します。自我は子供の特徴であり、それでいいのです。しかし、もし自我を人格と取り違えると、私たちは孤立し続けるでしょう。自我という殻は人格を守るために神が造られた覆いのようなものです。やがて成長と共に人格が現れて神との交わりを持つようになるために、自我は無くなっていかねばなりません。欲望が愛のふりをするように、自我は人格のふりをします。神は人間の性質をご自身のためにお造りになりました。自我は人間の性質を卑しいものにします。
自我の特徴はひとりよがりと自己主張です。私たちの霊性を妨げるものは、なによりも絶えざる自我の主張です。「信じることができない」と言うのは、自我が妨げているからです。自我は決して信じることができません。しかし人格は信じずにはいられないものです。聖霊が働かれている時に、注意して自分を観察してごらんなさい。聖霊はあなたを自我の限界にまで追い詰めます。そこであなたは聖霊を拒否するか、それとも自我の殻を破り人格が現れるように自我を明け渡すかのどちらかです。聖霊は常に一つのことに絞り込んで来られます(マタイ5:23-24を参照)。兄弟と和解しようとしない心が自我です。神はあなたと一つになることを願っておられます。しかし、あなたが自分の権利を明け渡そうとしない限り、神と一つになることはできません。「自分を捨て」というのは、自らのひとりよがりの権利を捨てるということです。そうすれば真のいのちが成長することができるようになります。
Hitoshi on 10月 21st 2011 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『神のみこころは、あなたがたが聖(きよ)くなることです。』1テサロニケ4:3
神が私を聖(きよ)くしてくれるだろうか、ということが問題ではありません。問題は聖(きよ)くなることを私が願っているかどうかなのです。キリストの贖罪で達成されているすべてのみわざが、私の身の上に成就することを神に求めているでしょうか。イエスが私にとって聖化となり、イエスのいのちが私のこの朽つべき身体に顕れることを望んでいるでしょうか。「ええ、私は聖(きよ)くされることを慕い求めています」と言わないようにしてください。実際のところ慕い求めていないのです。慕い求めることを止めて、「私にはなにもささげるものはありません」と言って、契約を取り結ぶことだと考えてごらんなさい。
あなたにとってイエス・キリストが聖となるように絶対的信頼をもってキリストを受け入れなさい。そうすれば、イエスの驚くべき「贖罪」があなたにとって現実のものとなります。イエスが成就してくださったすべてのことが、イエスがなされたみわざを土台として、神の一方的な愛の贈り物によって私のものとなります。救われ聖(きよ)められた私の心は真に謙虚なホーリネス(聖さ)となります。(誇り高きホーリネスというものは存在しません)。このホーリネス(聖さ)とは、苦悩を伴う悔い改めと言葉にできない恥と汚れに根ざしており、同時に私がキリストについてなにも考えていなかった時に、キリストは私の救いと聖化のためにすべてを完成してくださっていた、神の愛が私に託されていた、という驚くべき気づきに根ざしています。キリストは私の救いと聖化のためにすべてを成就してくださいました(ローマ5:8英改訂版を参照)。どんなものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)とパウロが言うのもふしぎではありません。
聖化が私をイエス・キリストと一つに結び付けてくれます。そしてキリストにあって神と一つに結ばれます。それはキリストのすばらしい贖罪によってのみなされることです。結果を原因と混同しないでください。私の中に生じる結果は従順と奉仕と祈りです。贖罪によって私の中に生み出された驚くべき聖化に対する言葉にならない感謝と賛美の結果であります。
Hitoshi on 10月 6th 2011 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『わたしのところに来なさい。』マタイ11:28
イエスのところに行きなさい、と言われる事は侮蔑的に聞こえるでしょうか。イエス・キリストのところにあえて行くまでもないと思うのではないでしょうか。あなたという人間がどれくらい本物かを知りたければ、「わたしのところに来なさい」という言葉で試してみてください。あなたが本物でない分だけ、イエスのところに行くよりもむしろ無益な口論をし、悲しむことを選ぶでしょう。「あるがままで」イエスのところに行くような全く愚かなことをするくらいなら、それ以外のことを何でもすると思ってはいませんか。あなたがほんのわずかな霊的高ぶりでも持っている限り、神があなたに「来なさい」とだけ言っているにもかかわらず、何か大きなことをするようにと神があなたに言われるのを期待しているという事実の中に、あなたの霊的高ぶりが露呈することでしょう。
「わたしのところに来なさい。」この言葉を聞くとき、あなたがイエスのところに行く前にあなたの中で何かが起こる必要があることに気がつくでしょう。聖霊があなたのなすべきことを示してくれます。あなたがイエスのところに行くことを妨げている事がらの根っこを切り離す何かを示してくれるでしょう。あなたがその具体的なことについて何かをしようとしない限り、前に進むことはできません。聖霊がその難攻不落の事がらをあなたの中に見つけます。しかし、あなたがそれを神に解決していただきたいと願わない限り、神はそれを動かすことができません。
神に願い事を携えて来て、「今度こそは願いがかなうぞ!」という思いになったことがいく度あったでしょうか。しかし、実際は何も得ていないのです。神はずっと両手を広げてあなたを抱きしめるだけでなく、あなたにも抱きしめてもらいたいと待っておられるのです。「わたしのところに来なさい」と言われるイエスの不朽不屈の忍耐を考えてみてください。
Hitoshi on 10月 5th 2011 福江牧師著作紹介

福江等牧師の訳書
Hitoshi on 9月 13th 2011 未分類

加賀野井教会創立38周年記念チャペルコンサート
Hitoshi on 8月 19th 2011 牧師の小窓
(第14代合衆国運輸長官、ノーマン・ミネタ氏)
最近はじめて日系アメリカ人のノーマン・ミネタ(峯田良雄)という人物について知る機会を得ました。NHKの特別番組で渡部謙さんとのインタビューでこの人の人となりを知ることができ、日本人として誇りに思いました。ノーマン・ミネタ氏はカルフォルニア・サンノゼ市の市議会議員を皮切りにアメリカ合衆国の運輸長官にまで上り詰めた人です。クリントン大統領とブッシュ大統領のもとで日系人としてははじめての閣僚でありました。あの9・11の同時多発テロが起きた時に運輸長官をしていて、素早い対応が求められていた時に、非常に勇気ある言動を貫いた点に痛く感動しました。彼は、9・11の直後にアメリカ国内の各空港における乗客の身体検査に関して、人種・国籍、宗教などによる特別検査を認めないと発表したのでした。テロを起こした犯人たちがアラブ系イスラム系であるということによって、すべてのアラブ系の人やイスラム教徒が特別厳しい検査を強要されるであろうことを予測して、それを認めないとメディアで明言したのです。すべての乗客が同等の身体検査を課せられることになるという姿勢を貫いたのです。そのために、ミネタ氏は激しい攻撃にさらされることとなりました。世論の心ない批判攻撃にさらされても、一歩も譲らず、彼の姿勢を貫き通したことは後に高く評価されることとなったのです。
そのような強固な意志がどこから来たのか、実は彼は日系人2世として太平洋戦争勃発と同時に両親と共にロスアンゼルスからワイオミングにあった日系人収容所に隔離された経験を持っていたのです。日系人であるというだけで、彼はアメリカに対する忠誠を疑われ、荒涼たる原野に送り込まれたのです。そのような人権を踏みにじった過ちをアメリカは二度と侵してはならないという彼の信念がアラブ系イスラム系の人々に対する姿勢につながったのでした。その信念を貫いてくれたおかげでどれほど多くのアラブ系イスラム系の人々が9・11後のアメリカで難局を乗り越えられたことでしょう。また、ミネタ氏は日系人収容所に入れられた人々のための法律を実現し、国からの謝罪と補償とを取りつけたのでした。
いかなる世間の誹謗中傷にも屈することなく、信念を貫くということがいかに難しいことか、ミネタ氏のような日系人がいるということを知ることができて本当に幸いでした。
Hitoshi on 7月 26th 2011 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』ヤコブ1:4
大抵の人は主なところでは問題ないのですが、ある部分ではいいかげんです。それは罪というわけではないのですが、私たちをいいかげんにさせる傾向にある肉のいのちの名残りです。いいかげんさというものは聖霊にとっては侮辱的なものです。私たちが食べたり飲んだりすることにおいても、神を礼拝することにおいても、いいかげんなところがあってはいけません。
神に対する私たちの関係が正しくあるだけでなく、その関係の外的表現も正しくある必要があります。究極的には神はなにも漏らす事はありません。すべての細部が神の監督の下にあります。神はあらゆる方法で幾度も同じ事がらに私たちを連れ戻します。神は私たちが教訓を学ぶまで一つの事がらに何度でも連れ戻されます。なぜなら神は完全な者を造り出そうとされているからです。それは衝動的な性質かもしれません。あるいはぼんやりぐせかもしれません。あるいは独りよがりになる傾向かもしれません。何度も何度も神はいつまでも忍耐強く私たちをある具体的な事がらに連れ戻されます。神は完全に正しくなっていない一つの事がらを私たちの心に銘記されようとしておられるのです。
私たちは神の救いの啓示についてすばらしいセッションを持つことができました。私たちの心は神に対して全きものとなっています。神のすばらしい働きがなされ、主な部分においては私たちの心は神の御前に正しくなっています。聖ヤコブを通してみ霊が「さて、あなたの忍耐を完全に働かせなさい。」と言われます。「ま、今のところはしょうがないよ」と言っている、いいかげんな細部に注意しなさい。それがなんであれ、私たちが完全に神のものとなるまで、神はそれをしつこく指摘するでしょう。
Hitoshi on 7月 19th 2011 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸…に行かせ…。』マルコ6:45-52
もしイエス・キリストが私たちに何かを強いてさせて、私たちがキリストに従うなら、すばらしい成功を収めるだろうと私たちは考える傾向があります。私たちに対する神の目的は、私たちの夢の実現にあると考えてはいけません。神の目的は正反対であるかもしれません。神が私たちをある目的に、私たちの望む目標に向かって導いておられるという考えを私たちは抱いています。しかし、そうではありません。ある目的に至るかどうかという問題は単に付随的なことにすぎません。私たちが過程と呼んでいることを、神は目的と呼ばれます。
神の目的をどんなものだと思い描いているでしょうか。神の目的は私が今神とその力に信頼することです。もし私が混乱のただ中で冷静に落ち着いていられるなら、それが神の最終目的です。神は何かある具体的な結末へと導いておられるのではありません。神の目的は過程です。つまり、主が波の上を歩いておられるのを私が見るということ、岸は見えず、成功も目標も見えず、ただ、主が海の上を歩いておられるのを見ているから、大丈夫なのだという絶対的確信を持つことが神の目的です。神に栄光をお返しするものは結末ではなく過程なのです。
神の訓練は将来のためにではなく、今なのです。神の目的は将来の何かのためではなく、今この瞬間のためなのです。神に従って行った後どうなるかは、私たちに関係のないことです。将来どうなるかを考えると間違えてしまいます。人々が訓練とか準備とか言っていることを、神は目的と呼んでいます。
神の目的とは、今この時、私の人生の混乱の上を主が歩かれるのを見させてくださるということです。もし私たちがさらに遠い将来のことを見ようとしているなら、すぐ目の前にあることに十分注意を払わなくなります。主について行くことが目的なのだということに気がつくなら、瞬間、瞬間が宝になってきます。