Hitoshi on 9月 1st 2010 未分類
『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。』ヨハネ11:41
神の御子が祈られた時、ただ一人の方だけを意識されていた。その方は御子の「父」である。神はいつも御子の祈りを聞いてくださる。もし、神の御子が私の中に形作られているなら、「父」は常に私の祈りを聞いてくださる。神の御子が私の朽つべき肉体に現れされていることを知るべきである。「あなたがたのからだは聖霊の宮です。」つまり、神の御子を宿すベツレヘムである。神の御子はわたしの中で生きる機会を得ているだろうか。神の御子が地上におられた時に生きられたと全く同じように、御子のいのちの真の素朴さがわたしの中で生きられているだろうか。普通の人として日常の様々な出来事に接する時に、「父」に対する神の永遠の御子の祈りがわたしの中で祈られているだろうか。「その日にはあなたがたはわたしの名によって求めるのです・・・。」その日とはいつのことであろうか。聖霊が私の心に入り、私が主と実際にひとつにされた日である。
主イエス・キリストはあなたの人生に十分満足しておられるだろうか。それともあなたは霊的なプライドを持っているのではないだろうか。常識で神の御子を隅へ決して追いやってはいけない。常識とは神が人間に与えられた賜物である。しかし常識は神の御子という賜物とは異なる。超自然の感覚が御子の賜物である。決して常識を王座に据えてはいけない。御子は「父」に気づく。しかし、常識は「父」に気づいたことはないし、これからも気づく事は決してない。私たちの普通の知性は内住の神の御子によって変えられない限り、神を礼拝することへは決して向かわない。この朽つべき肉体が神に完全に服従し、神が絶えずそれを通して働かれていることを知るべきである。私たちは主のいのちが絶えず現れるように、イエス・キリストにそのように信頼しつつ生きているだろうか。
Hitoshi on 8月 18th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスは…人のうちにあるものを知っておられたので…。』ヨハネ2:24-25
幻滅を経験すれば人生において間違った判断をしないようになる。しかし、幻滅したことによって「もう騙されないぞ」という姿勢は、他人を測る上で冷笑的になり、思いやりのない厳しさを持つ者になる可能性がある。一方、神から来る幻滅を抱くなら私たちは人をありのままで見られるようになる。それでいて冷笑はなく、人を言葉のとげで刺すこともない。人生における苦痛の多くは、思い違いで悩むことから起こる。私たちは互いの「ありのまま」を信頼しているのではない。互いに対する自らの「想像」を信頼しているのである。私たちの想像に従って、すべては快く好ましいものになることもあれば、意地悪く卑劣なものになったりもする。
幻滅したくないという思いが人生のほとんどの苦しみの原因である。すなわち次のように気持ちが動いていく。もし私たちがある人を愛してはいるが、神を愛していないとすれば、私たちはその人から完璧さや正しさを要求するようになる。ところがそれを得られないと、私たちは残酷になり恨み深くなる。それはつまり人が私たちに与えることができないことを要求しているのである。人間の心の深淵にある苦痛のきわみを癒してくださるお方はお一人しかいない。それは主イエス・キリストである。主がすべての人間関係について明らかに非常に厳しくされているのは、主に対する忠実に根ざしていないすべての人間関係は悲惨な結果になることを主がご存じであるからだ。主は誰をも信頼されなかった。しかし、主は決して人を疑わず、決して辛辣でもなかった。主イエスが神に対して持つ確信、神の恵みが人に及ぼすものへの確信が完全であったので、主は誰に対しても望みを失う事はなかった。もし私たちが人間に信頼を置くならば、あらゆる人に失望する結果になるであろう。
Hitoshi on 8月 4th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『主を待ち望む者は…歩いても疲れない。』イザヤ40:31
歩くことに別にスリルはない。それは安定した生き方があるかどうかの試金石である。「歩いても疲れない」というのは人間の到達しうる最高の力である。「歩く」という言葉は聖書の中では生き方を表現している。『ヨハネは自分の方にイエスが歩いて来られるのを見て言った。「見よ、神の子羊。」』聖書の中には抽象的なものは何もない。常に生き生きとしていて具体的である。神は「霊的でありなさい」とは言われない。「私の前を歩みなさい」と言われる。
私たちが肉体的にあるいは感情的に不健康な状態にある時は、常にスリルを求める。肉体的な領域ではこれは聖霊と似て非なるものへと導く。感情的領域ではこれは極端な愛着と道徳心の腐敗へと導く。そして霊的領域では、もし翼をかって昇りたいと言うようなスリルを持つ事に固執するなら、それは霊性の破壊をもたらすであろう。
神の臨在の真実は私たちがどこにいるかで決まるのではなく、常に主を自分の前に置くという心の決断によるのである。私たちが神の臨在の真実により頼むことを否定する時に問題が起こるのである。「たとえ…とも、私たちは恐れない」という詩篇の記者が語る経験は、私たちがひとたび神の臨在の「真実」に基礎を置くなら私たちのものとなる。神の臨在の意識ではなく、その真実である。つまり、「ああ、神はずっとここにおられたのだ!」という真実である。
危機的な時には導きを求めることも必要だが、いつも「おお、主よ、私をここへ、あそこへ導きたまえ」と祈る事は不必要であるはずだ。むろん神は導いてくださる!もし私たちの常識的決断が神のみこころにそぐわないものならば、神は圧力を加えて私たちの心を探られる。その時は私たちは静かにして神の臨在の導きを待たねばならない。
Hitoshi on 7月 28th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『私は、キリスト…を知り…』ピリピ3:10
聖徒を動かしているものは自己実現ではなく、イエス・キリストを知りたいということである。霊的聖徒は状況を決して単なる偶然とは信じない。あるいは自分の生活を聖と俗に分けて考えることをしない。聖徒は自分の置かれた状況のすべてをイエス・キリストについて知るための手段だと見ている。
聖徒には思い切った自己放棄がある。聖霊は私たちが生活のあらゆる局面においてイエス・キリストを見出してほしいと堅く決意しておられる。私たちがそうするまで聖霊は何度も何度も同じところへ私たちを連れ戻す。自己実現を優先すると仕事をあがめるようになる。これに対して聖徒は自らの仕事の中でイエス・キリストをあがめる。それが食べる事であれ、飲むことであれ、あるいは弟子たちの足を洗う事であれ、何であれ、私たちはその中で率先してイエス・キリストを見出さねばならない。私たちの具体的生活のあらゆる局面はイエスのご生涯の中に対応するものがある。私たちの主は召使のするような仕事の中にも「父」との関係を見出しておられた。「イエスは、…ご自分が父から来て父に行くことを知られ、…手ぬぐいを取って…弟子たちの足を洗い…始められた。」
霊的聖徒の生きる目的は「キリストを知る」ことである。今日私のいるところでキリストを見出しているだろうか。もし見出していないならば、キリストを失望させていることになる。私が生きているのは自分を実現するためではなく、イエスを知るためである。クリスチャンの働きにおいてその動機はしばしば何かをしなければならない、私がしなければならない、という思いがある。それは決して霊的聖徒の生きる姿勢ではない。聖徒の生きる目的は置かれている状況のあらゆる局面でイエス・キリストを確実に見出すことである。
Hitoshi on 7月 13th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』詩篇37篇5節
神を計算に入れよ。
神は私たちが神を計算に入れずに考えた事を壊すことを楽しまれているかのようである。私たちは神によって導かれたのではない状況に入ることがある。そして私たちは神を計算に入れていなかったことに突然気がつく。神が生きた存在として介入していなかったのである。心配から私たちを守ってくれる一つの事は、私たちのすべての計画の中に神を最も重要な要素として迎え入れることである。私たちの信仰においては、神を第一にすることが通例になっている。しかし私たちの実際生活の諸問題の中に神を第一として入れる事は見当はずれだと思う傾向がある。もし神に近づくのに私たちは日曜日の礼拝のムードを持たないといけないと考えるなら、私たちは神に近づくことは決してできない。私たちは普段のありのままで神に近づかねばならない。
悪を計算に入れるな。
「愛は…悪を思わない」とあるが、神は本当に私たちが悪を思わないようにと言われているのだろうか。愛は悪の実在に対して無知ではない。しかし愛は悪を計算に入れないのである。神から離れれば、私たちは悪を考えに入れる。私たちは悪を計算に入れ、その視点から私たちのすべての考えを組み立てるであろう。
取り越し苦労を計算に入れるな。
あなたがイエス・キリストを信頼しているのなら、取り越し苦労をしてはいけない。イエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われた。これは「…なりません」という命令である。神があなたの心を騒がせないようにしてくれるのではない。心を騒がせなくするために一日の内に何回も何回も心の向きを変えなさい。神を第一にして、神を計算に入れる事が習慣となるまで。
Hitoshi on 7月 7th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『今はあなたがたの時です。暗闇の力です。』ルカ22:53
人生にあらゆる悲劇が生まれるのは、罪という現実を認めないからである。人間性の高貴さが語られるかもしれない。しかし、人間性の中にはあなたの持てるあらゆる理想を真っ向から笑い物にする何かがある。人間性の中には悪があり、利己主義があり、まぎれもない悪意があり、邪悪さがあるという現実を否定し、それを認めないならば、その現実があなたに直面するとき、あなたはそれと妥協し、それと戦っても意味がないと言うだろう。今の暗闇の時と力を考慮に入れているだろうか、それとも罪の現実を見ずにいるのだろうか。あなたの肉体的関係や友情において、あなたは罪の現実を認めているだろうか。もし認めていないならば、もう間もなくその現実に直面するだろう。そしてあなたはそれと妥協することになろう。罪の現実を認めるならば、あなたはその危険性にすぐに気がつくであろう。「ええ、その意味が分かります」と言うだろう。罪の現実を認める事は友情の基盤を壊すものではない。人生の基盤は悲惨なものだという現実をお互いに尊重することにつながる。罪の現実を認めない人生観には常に気をつけるがよい。
イエス・キリストは人間性を決して信用していなかった。しかし主は決して冷笑家でもなければ、疑り深くもなかった。なぜなら主は人間の性質を変えることができると完全に信じておられたからである。無垢ではなく純粋な人というのは罪から保護されている人のことである。無垢な人には決して安心できない。どうして無垢でおられようか。神の求めておられる事は私たちが純粋で高潔であることである。無垢とは子供の特徴である。大人が罪の現実を認めないということは非難に値することである。
Hitoshi on 6月 30th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、』ヨブ42:10
「私は何が何でも義人になりたい」という哀れで、自分中心的で、病的な類の祈りは新約聖書には決して見出すことができない。私が神に対して義しい人間になろうとしていることは、「あがない」に反発しているしるしである。「主よ、もしあなたが私の祈りに答えてくださるなら、私は心のきよい者になります。もしあなたが私を助けてくださるなら、私は義しく生きていきます。」実際は私は自分で神に対して義しい者となることはできないのである。私は自らの生活を全きものとすることはできない。私が神のみ前に義しい者となりうるのは、主イエス・キリストの「あがない」を一方的な贈り物として受け入れるときだけである。それを受け入れるだけの謙遜さがあるだろうか。私はあらゆる主張を取り下げ、あらゆる努力を止め、自らを丸裸でキリストのみ手の中にゆだねなければならない。そしてその後で、祭司としての働きである取り成しの祈りに心を注ぎだし始めなさい。「あがない」を真に信じていないことから出てくる祈りが沢山ある。イエスは私たちをこれから救ってくださるのではない。イエスはすでに私たちを救ってくださったのだ。救いはすでに成就しているのである。にもかかわらずイエスに救ってくださいと祈るのはイエスを侮辱することである。
もしあなたが百倍の実を結んでいないのなら、もし神のみことばから洞察を見出していないのなら、あなたの友人のために祈り始めなさい。心の奉仕を始めなさい。「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし」た。救われた者としてのあなたの人生の本当の仕事は取り成しの祈りである。神が色々な状況の中にあなたを置かれる時、いつでもすぐに祈りなさい。キリストの「あがない」があなたの人生において現実のものとなったように、他の人々の上にも現実のものとなるように祈りなさい。あなたの友人たちのために今祈りなさい。あなたが接する人々のために今祈りなさい。
Hitoshi on 6月 22nd 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
自分の好みが死に、聖別された者が人生を明け渡すところ
『わたしについて来なさい。』マルコ1:17
イエスについて行く上で最大の妨げは気質という口実である。私たちは気質とか生来の好みとかのためにイエスについて行けないと言う。イエスのところに来て私たちが最初に気がつくことは、イエスは私たちの生来の好みには全く関心がないということである。
私たちは自分の賜物を神にささげることができると考えている。自分のものでないものをささげることはできない。私たちが神にささげうるものはただ一つである。それは自分に対して持つ権利だけである(ローマ12:1)。あなたが自分に対して持つ権利を神にささげるなら、神はあなたを聖なる実験としてくださる。そして神の実験は常に成功する。聖徒の一つの特徴は、イエス・キリストに明け渡すことから生まれる心のオリジナリティである。聖徒の人生には常にこのオリジナリティが驚くほど湧き上がってくる。神の御霊は湧き上がる泉であり常に新鮮である。状況を導かれるのは神であることを聖徒は知っている。それゆえに愚痴は言わない。あるのはイエスに思い切り自分を明け渡すことだけである。
決して自分の経験をもとにして原則を作ってはいけない。神があなたに対してオリジナリティを引き出そうとしていると同じように、神は他の人々に対してもオリジナリティを引き出そうとしておられる。その神の働きを妨げてはいけない。
もしあなたがイエスに自分を明け渡し、「わたしについてきなさい」と言われるイエスについて行くなら、イエスはあなたを通して「ついてきなさい」と言い続けられる。あなたはキリストの「ついてきなさい」という言葉を響かせながら生きる。それがイエスに自らを明け渡しついていく者の心に生まれるものである。
私はイエスのところに来ているのだろうか。今イエスのところに行くだろうか。
Hitoshi on 6月 18th 2010 忘れられない言葉
息子よ。聞いておくれ。お前の小さな手はお前の頬の下で丸くなり、巻き毛の髪は汗をかいた額の上にくっついて、寝静まっているお前に話しするから。お父さんはこっそりとお前の部屋に一人で入ってきたよ。ちょっと前、居間で新聞を読んでいる時に、重っ苦しい後悔の波が押し寄せてきたんだ。すまない思いでお前のベッドの側に来たのだよ。
息子よ。お父さんが考えていたことはこうなんだ。お父さんはずっとお前に怒りっぱなしだったね。朝学校に行く準備をしている時、お前はタオルで顔をパタパタとするだけだったからお父さんはお前を叱ったね。お前が靴を磨いていないということでお父さんはまた叱ったね。お前がなにかを床に投げた時、お父さんは大声で怒ったね。
朝食の時もお父さんはお前が食べ物をこぼした時、食べ物を飲み込んだ時、テーブルに肘をついた時、パンの上にバターをたくさんつけた時、お前を非難したね。それからお前が遊びに出る時、そしてお父さんが電車に乗るために出かけようとした時、お前は振り返って手を振り「パパ、いってらっしゃい!」って大きな声で言ったね。そのときお父さんは顔をしかめて「背中をまっすぐにして!」と返したよね。
夕方、またまた同じことを繰り返したよね。お父さんが家に近づいてきた時、お前が四つん這いになってビー玉で遊んでいたところをお父さんはこっそりと見ていたんだ。見るとお前のソックスに穴が開いていたんだ。お父さんはお前をお父さんの前を歩かせて、友達の前で叱ってお前に恥をかかせたよね。『靴下は高いんだ。自分でお金を出して買うんだったら、気をつけるだろう!お父さんがどんなに大変か考えてみなさい!』と言ってお前を叱りつけたね。
それから夕食後お父さんが居間で新聞を読んでいる時、お前がおずおずとなんか悲しそうな顔をして入ってきたのを覚えているかい。お父さんが邪魔されるのが嫌そうに新聞の上からちらっとお前を見た時、お前はドアのところでもじもじしてたよね。お父さんは「なんの用?」とぴしゃりと言ったよね。
お前は何も言わず、ものすごい速さで走ってきて、お父さんの首に手をまわしてお父さんにキスをしてくれたね。お前の小さな腕はあったかかったよ。神様がお前の心の中に無視されても枯れることのない花を咲かせてくれたんだね。それからお前は階段をパタパタ音を立てながら上がって行ったね。
息子よ。あれから少ししてだよ。お父さんの手から新聞が落ちて、ひどく気持ちの悪い恐れが来たのは。いつの間にこんな習慣を身につけてしまったのか。いつも欠点を見つけ、叱りつけるという習慣――これがお前が子どもであることへのお父さんのお返しだったとは。お前を愛していなかったというのではないんだ。お前に期待をし過ぎていたんだ。お父さんはお前をお父さんの身丈で計っていたんだ。
それにお前にはすばらしくすてきな、正直な性格があるにもかかわらずだ。お前の小さな心には広い野原に上る夜明けくらいの大きさがあるよ。それはあの時お前が自分からとっさに走ってきてお父さんにお休みのキスをくれたときに分かったよ。息子よ。他のことはもうどうでもいいんだ。お父さんはこの暗がりの中でお前のベッドのそばに来て膝まづいているよ。本当に情けないお父さんだ!
お前が目が覚めている時にこういったことを話しても分かってくれないだろうね。でも、明日からお父さんは本当のお父さんになるから!お父さんはお前の親友になるよ。そしてお前が苦しんでいる時はお父さんも一緒に苦しむよ。お前が笑う時はお父さんも一緒に笑うよ。いらいらした言葉が出そうになったらぐっと唇を噛んで抑えるよ。そして「この子は小さい子どもなんだ。小さい子どもらしくさせてあげよう!」と儀式のように唱えるよ。
お父さんはお前を大人のように見ていたんだね。今こうしてお前が体を小さくしてベッドに疲れ果てて寝ているのを見ると、お前はまだ赤ん坊だったんだね。ついこの間までお前はお母さんの腕の中にいてお前の頭はお母さんの肩の上にあったんだものね。お父さんはお前に要求しすぎていたんだね。お父さんがお前に一人前の大人になることを教えようとする時に、子どもの愛らしい心を忘れないようにお父さんに思い出させておくれ。きっとだよ。約束だよ。
W.リビングストン・ラーンド (日本語訳福江等)
Hitoshi on 6月 16th 2010 オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)
『わたしは、あなたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。』ヨハネ14:13
私はこの内なるご奉仕を果たしているだろうか。取り成しの祈りには、盲目的に夢中になったりプライドに陥ったりする罠も危険もない。取り成しの祈りは隠れたご奉仕であり、それは実を結び父なる神が栄光を受けられる。私の霊的生活は退化しているのだろうか、それとも一点にすべてを集中しているのだろうか、つまり、「主の贖い」という一点に。イエス・キリストがますます私の生活のあらゆる関心事の中心になっているだろうか。もし私の人生に最も大きな影響を与える中心的一点が「主の贖い」であるなら、私の人生のすべての領域は主のために実を結ぶことになる。
自分の力の中心的一点が何か、時間を取って確かめる必要がある。60分の内1分をそのことに集中する時間を取っているだろうか。「もしあなたがたが私にとどまるなら」とある。その一点から行動し、考え、働き続けよ。そうすれば「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」私は主にとどまっているだろうか。主にとどまるために時間を割いているだろうか。私の人生に力をもたらしてくれる最大のかなめは何だろうか。仕事だろうか、奉仕だろうか、人々のための犠牲になることだろうか、それとも神のためにご奉仕することだろうか。私の人生に最大の力を与えてくれるものは「主の贖い」であるはずだ。私たちを真に形成するものは私たちが最も多くの時間を費やすものではない。最大のかなめが最大の力を与えてくれる。私たちはあえて自らに限界を定め、関心事を集約する決意をしなければならない。
「わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」イエスにとどまる弟子こそが神のご意志にかなう者であり、その人が自由に選択しているように見えることが、実は神があらかじめ定めておられる事なのである。神秘的だと言われるか。論理的に考えて矛盾していてばかげていると思われるか。その通りである。しかし聖徒にとってはこれが栄光に満ちた真理なのである。