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勇気ある行動  日系人2世

 (第14代合衆国運輸長官、ノーマン・ミネタ氏)
 最近はじめて日系アメリカ人のノーマン・ミネタ(峯田良雄)という人物について知る機会を得ました。NHKの特別番組で渡部謙さんとのインタビューでこの人の人となりを知ることができ、日本人として誇りに思いました。ノーマン・ミネタ氏はカルフォルニア・サンノゼ市の市議会議員を皮切りにアメリカ合衆国の運輸長官にまで上り詰めた人です。クリントン大統領とブッシュ大統領のもとで日系人としてははじめての閣僚でありました。あの9・11の同時多発テロが起きた時に運輸長官をしていて、素早い対応が求められていた時に、非常に勇気ある言動を貫いた点に痛く感動しました。彼は、9・11の直後にアメリカ国内の各空港における乗客の身体検査に関して、人種・国籍、宗教などによる特別検査を認めないと発表したのでした。テロを起こした犯人たちがアラブ系イスラム系であるということによって、すべてのアラブ系の人やイスラム教徒が特別厳しい検査を強要されるであろうことを予測して、それを認めないとメディアで明言したのです。すべての乗客が同等の身体検査を課せられることになるという姿勢を貫いたのです。そのために、ミネタ氏は激しい攻撃にさらされることとなりました。世論の心ない批判攻撃にさらされても、一歩も譲らず、彼の姿勢を貫き通したことは後に高く評価されることとなったのです。
 そのような強固な意志がどこから来たのか、実は彼は日系人2世として太平洋戦争勃発と同時に両親と共にロスアンゼルスからワイオミングにあった日系人収容所に隔離された経験を持っていたのです。日系人であるというだけで、彼はアメリカに対する忠誠を疑われ、荒涼たる原野に送り込まれたのです。そのような人権を踏みにじった過ちをアメリカは二度と侵してはならないという彼の信念がアラブ系イスラム系の人々に対する姿勢につながったのでした。その信念を貫いてくれたおかげでどれほど多くのアラブ系イスラム系の人々が9・11後のアメリカで難局を乗り越えられたことでしょう。また、ミネタ氏は日系人収容所に入れられた人々のための法律を実現し、国からの謝罪と補償とを取りつけたのでした。
 いかなる世間の誹謗中傷にも屈することなく、信念を貫くということがいかに難しいことか、ミネタ氏のような日系人がいるということを知ることができて本当に幸いでした。

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あなたが完全に神のものとなるまで  (7月31日)

『その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』ヤコブ1:4
 大抵の人は主なところでは問題ないのですが、ある部分ではいいかげんです。それは罪というわけではないのですが、私たちをいいかげんにさせる傾向にある肉のいのちの名残りです。いいかげんさというものは聖霊にとっては侮辱的なものです。私たちが食べたり飲んだりすることにおいても、神を礼拝することにおいても、いいかげんなところがあってはいけません。
 神に対する私たちの関係が正しくあるだけでなく、その関係の外的表現も正しくある必要があります。究極的には神はなにも漏らす事はありません。すべての細部が神の監督の下にあります。神はあらゆる方法で幾度も同じ事がらに私たちを連れ戻します。神は私たちが教訓を学ぶまで一つの事がらに何度でも連れ戻されます。なぜなら神は完全な者を造り出そうとされているからです。それは衝動的な性質かもしれません。あるいはぼんやりぐせかもしれません。あるいは独りよがりになる傾向かもしれません。何度も何度も神はいつまでも忍耐強く私たちをある具体的な事がらに連れ戻されます。神は完全に正しくなっていない一つの事がらを私たちの心に銘記されようとしておられるのです。
 私たちは神の救いの啓示についてすばらしいセッションを持つことができました。私たちの心は神に対して全きものとなっています。神のすばらしい働きがなされ、主な部分においては私たちの心は神の御前に正しくなっています。聖ヤコブを通してみ霊が「さて、あなたの忍耐を完全に働かせなさい。」と言われます。「ま、今のところはしょうがないよ」と言っている、いいかげんな細部に注意しなさい。それがなんであれ、私たちが完全に神のものとなるまで、神はそれをしつこく指摘するでしょう。

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イエスについて行った後、どうなる? (7月28日)

『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸…に行かせ…。』マルコ6:45-52
 
 もしイエス・キリストが私たちに何かを強いてさせて、私たちがキリストに従うなら、すばらしい成功を収めるだろうと私たちは考える傾向があります。私たちに対する神の目的は、私たちの夢の実現にあると考えてはいけません。神の目的は正反対であるかもしれません。神が私たちをある目的に、私たちの望む目標に向かって導いておられるという考えを私たちは抱いています。しかし、そうではありません。ある目的に至るかどうかという問題は単に付随的なことにすぎません。私たちが過程と呼んでいることを、神は目的と呼ばれます。
 神の目的をどんなものだと思い描いているでしょうか。神の目的は私が今神とその力に信頼することです。もし私が混乱のただ中で冷静に落ち着いていられるなら、それが神の最終目的です。神は何かある具体的な結末へと導いておられるのではありません。神の目的は過程です。つまり、主が波の上を歩いておられるのを私が見るということ、岸は見えず、成功も目標も見えず、ただ、主が海の上を歩いておられるのを見ているから、大丈夫なのだという絶対的確信を持つことが神の目的です。神に栄光をお返しするものは結末ではなく過程なのです。
 神の訓練は将来のためにではなく、今なのです。神の目的は将来の何かのためではなく、今この瞬間のためなのです。神に従って行った後どうなるかは、私たちに関係のないことです。将来どうなるかを考えると間違えてしまいます。人々が訓練とか準備とか言っていることを、神は目的と呼んでいます。
 神の目的とは、今この時、私の人生の混乱の上を主が歩かれるのを見させてくださるということです。もし私たちがさらに遠い将来のことを見ようとしているなら、すぐ目の前にあることに十分注意を払わなくなります。主について行くことが目的なのだということに気がつくなら、瞬間、瞬間が宝になってきます。

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聖化       (7月23日)

『あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の…聖(きよ)め…となられました。』Ⅰコリント1:30
 
生の側面。 聖化の神秘とはイエス・キリストの完全が私に与えられるということです。それも徐々にではなく、瞬間的にです。イエス・キリストが私にとって聖め(聖化)となってくださったと信仰によってはっきりと理解する時に、起こるのです。聖化とはイエスのホーリネス(聖性)がはっきりと私のものとなるということに他なりません。
 聖なるいのちの驚くべき秘訣はイエスに倣(なら)うことではなく、イエスの完全が私の血肉に自ずと現れるようにしていただくことです。聖化とは「あなたがたのうちにおられるキリスト」のことです。聖化において私に与えられているのはイエスのすばらしいいのちです。そしてそれは信仰によって神の恵みによる至高の賜物として与えられるものです。神のみことばにあるとおり、私は神に聖化を私の中に現実のものとしてもらいたいと望んでいるでしょうか。
 聖化とはイエス・キリストの聖なるご性質が与えられる事です。すべての聖められたたましいの中にはっきりと現れるものはイエスの忍耐、イエスの愛、イエスのホーリネス(聖性)、イエスの信仰、イエスの純粋さ、イエスの敬虔さです。聖化とはイエスから聖くなるための力を引き出すことではありません。聖化とはイエスの中にあったホーリネスをイエスから引き出すことです。そしてイエスはそれを私の中に現わしてくださいます。聖化とは倣(なら)うことではなくて、与えられるものです。倣うというのは別な次元の話です。イエスの中にあらゆる完全があります。そして聖化の不思議とはイエスのあらゆる完全がわたしにゆだねられているということであって、ゆっくりと確実に言葉にできない秩序と健全さと聖さの人生を生き始めるということです。「神の力によって保たれつつ。」
 

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Be Still, and Know that I am God!

\"Be Still and Know that I am God!\" Psalm 46
Pastor Paul shares his heart of faith with English speakers here in Kochi. This particular meeting is at one of the homes of Filipino friends in Tosayamada, Kochi Pref. Enjoy the message!

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内なる働き   (6月21日)

『しかし、あなたがたは、…王である祭司…です。』第一ペテロ2:9
 
 どのような資格で私たちは「王である祭司」になるのでしょうか。「あがない」による資格です。私たちは自分のことを断固としてわきに置いて、祭司の仕事である祈りへと邁進する用意があるでしょうか。自分があるべき姿になっているだろうかと絶えず心の中を探ることは、神の子どもとしての力強く飾らない生き方ではなくて、自己中心的な陰気なタイプのキリスト教を生み出します。神と正しい関係に入るまでは、かろうじてぶらさがっているだけの信仰であって、「私にはすばらしい勝利がある」とは言うものの、そこには「救い」の奇跡を示すものはなにもありません。「あがない」が完成したということを大胆に信じて前進してごらんなさい。そして、もう自分のことについてこだわることを止めて、「真夜中にあなたの所に来る友のために祈りなさい。聖徒のために祈りなさい。すべての人のために祈りなさい。」とイエス・キリストが言われたように祈り始めてごらんなさい。あなたはキリスト・イエスにあってのみ全き人であることを覚えつつ祈りなさい。「ああ主よ。私はベストを尽くしてきましたから、どうか私の祈りを聞いてください」という訴えに基づいてではありません。
 自分のことばかり考える病的な癖から私たちを解放するために、神はどれほど長く耐えねばならないのでしょう。神が私たちについて語られることに少しも驚かなくなるまで、私たちは自分について死に至る病にかからねばならないようです。私たちの内にある醜さは計り知ることができません。ただ私たちが正しいと言える部分が一か所だけあります。それはキリスト・イエスの中においてです。そこに行き着いたら、全力を尽くしてこの内なる働きのために自らを注ぎだしなさい。

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薄れていく神の救い  (6月27日)

『わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。』エレミヤ1:8
 神はご自身の手でエレミヤを助け出すと約束されました。「あなたのいのちはあなたの分捕りものとしてあなたのものになる」(エレミヤ30:18)と主は言われます。これが神が神の子供たちに約束されるすべてです。神がどこに私たちを遣わそうとも、主は私たちのいのちを守られます。私たちの個人的な財産や持ち物には関心を持たず、そういったものすべてに対してゆったりと構えているべきです。もしそうしなかったら、パニックになり、失望し、悩みをかかえるでしょう。神に個人的に救い出されるということが薄れてしまった心の状態とはそのようなものです。
 山上の説教が示している事は、私たちがイエス・キリストのご用に携わっている時は、自分のために何かを主張するひまはないということです。基本的にイエスが言われている事は、「あなたが公平に取り扱われているかどうかで悩んではいけない」ということです。公平さを求めているということは、イエスに対する献身の思いからそれている印です。この世においては決して公平さを求めてはいけません。しかし、他の人には絶えず公平に接していきなさい。もし私たちが公平さを求めると、不平を言い始め、「なぜ、私がこんな風に取り扱われなければいけないんだ」とばかりに自己憐憫という不満の中にふけるようになるでしょう。もし私たちがイエス・キリストに献身しているなら、公平であろうと、不公平であろうと、私たちがどんなことに出会おうと関係ありません。イエスは、「わたしがあなたに与えた仕事を静かにやり続けなさい。そうすればわたしはあなたのいのちを守るのだから」と言われます。もしあなたが自分自身で自分を守ろうとすると、あなたは「私の」救いから自分を遠ざけるであろう。この点に関しては信仰深い人も無神論的になります。私たちは神を信じずに、自分の常識を王座に据え、それに神の名を付けてしまいます。心を尽くして神を信頼する代わりに、自分の悟りに頼ってしまうのです。

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次に大切なことは?  (6月8日)

『あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。』ヨハネ13:17
 
 あなたをつなぎ留めている錨の綱をあなたが断ち切らなければ、神が嵐でそれを切り、あなたを沖へ押しやらねばならないでしょう。神を全面的に信頼して、神のご計画の高波へと乗り出しなさい。そうすればあなたの目が開かれるでしょう。イエスを信じるのなら、港の中の穏やかな水面ばかりで過ごしてはいけません。喜びが一杯あるかもしれないけれど、それはいつも停泊した状態です。港の防波堤の中から神の大海へと出て行って、実際に経験してみなさい。そして霊的判断力を身に着け始めなさい。
 何かをするべきだと知っていて、それを実行するなら、即座にあなたは新しい事を発見します。霊的に怠惰になっている部分を修正してごらんなさい。するとそれはあなたがなにかしなければならないと知っていて、行わなかった事だったことに気がつくでしょう。それをすぐにしなければならない必要を感じなかったからかもしれません。そのために現在、霊的識別力、霊的洞察力が欠けています。なにか事が起こると平静さを失い、心を取り乱すのはそのためです。しなければならない事を知りつつ、それをせずにいるというのは危険なことです。
 偽りの従順とは、自分を犠牲にする機会を作り上げようとする心の状態のことです。熱心であることが霊的識別力と誤解されています。自分の霊的な目的を成就するよりも、自分を犠牲にする方が容易です。このことはローマ書12章1-2節に述べられています。多大な犠牲を払う行いをするよりも、神のみこころを識別してあなたの人生に対する神の目的を成就することの方がはるかに良い事です。「聞き従うことは、いけにえにまさる」(サムエル記第一15:22)のです。神があなたに新しい人になることを望んでいるときに、以前のあなたにもどろうとしないように気をつけなさい。「もし行うなら、…分かるでしょう。」

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難局にあたって立ちあがる習慣  5月15日(私訳)

『神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、…あなたがたが知ることができますように。』エペソ1:18-19

あなたが何のために救われたのか思い出してください。神の御子があなたの身体に宿るようになるためです。神の子として選ばれたことを明らかにするためにあなたの持てる力のすべてを傾けなさい。いつも難局にあたって立ちあがりなさい。
 あなたは救われるために自分で何かをすることはできません。でも救われていることを明らかにするために何かをしなければなりません。神が心の中に成し遂げてくださったことを外に現わすようにしなければなりません。あなたは自分の舌で、自分の頭脳で、自分の神経で救いを外に現わそうとしていますか。もしあなたが今でも以前と同じようにみじめで気難し屋で、自分の考えに凝り固まっているとしたら、神があなたを救い、聖(きよ)めてくださっているというのは嘘になります。
 神は「名監督」です。あなたが困難を正しく乗り越えられるかどうかを見るために、神はあえて困難をもたらされます。「私の神によって私は城壁を飛び越えます」(詩篇18:29)。神はご自分の息子、娘に要求されていることからあなたを隠すということは決してなさいません。「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむこと」のないようにしなさい、とペテロは語っています(Ⅰペテロ4:12)。難局にあたって立ちあがりなさい。行動しなさい。神があなたの身体の中にご自身を現わすチャンスとなるならば、試練によってどれくらいあなたが苦しむかは問題ではありません。
 神が私たちの中にこれ以上泣きごとを見出すことがありませんように。神が何をもたらされようとそれに立ち向かう霊的勇気、奮闘努力を見出すことができますように。神の御子が私たちの身体の中に現れるために自らを訓練しなければなりません。神は私たちを博物館の陳列品にされるのではありません。人生の唯一の目的は神の御子が現れるようになることです。すると神に指示しようとすることは消えてなくなります。主イエスは父なる神に指示されたことは一度もありません。私たちも神に指示するために生きているのではありません。私たちは神のみこころが私たちを通してなされるために、神のみ意志に服すために生きています。このことが理解できれば、神は私たちを裂かれたパンと注がれたワインとして、他の人々を養えるものにしてくださいます。

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English Message “The Fragrance of Christ”

The Fragrance of Christ

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