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神のみこころは私の願いであろうか  (10月20日)

『神のみこころは、あなたがたが聖(きよ)くなることです。』1テサロニケ4:3
 神が私を聖(きよ)くしてくれるだろうか、ということが問題ではありません。問題は聖(きよ)くなることを私が願っているかどうかなのです。キリストの贖罪で達成されているすべてのみわざが、私の身の上に成就することを神に求めているでしょうか。イエスが私にとって聖化となり、イエスのいのちが私のこの朽つべき身体に顕れることを望んでいるでしょうか。「ええ、私は聖(きよ)くされることを慕い求めています」と言わないようにしてください。実際のところ慕い求めていないのです。慕い求めることを止めて、「私にはなにもささげるものはありません」と言って、契約を取り結ぶことだと考えてごらんなさい。
あなたにとってイエス・キリストが聖となるように絶対的信頼をもってキリストを受け入れなさい。そうすれば、イエスの驚くべき「贖罪」があなたにとって現実のものとなります。イエスが成就してくださったすべてのことが、イエスがなされたみわざを土台として、神の一方的な愛の贈り物によって私のものとなります。救われ聖(きよ)められた私の心は真に謙虚なホーリネス(聖さ)となります。(誇り高きホーリネスというものは存在しません)。このホーリネス(聖さ)とは、苦悩を伴う悔い改めと言葉にできない恥と汚れに根ざしており、同時に私がキリストについてなにも考えていなかった時に、キリストは私の救いと聖化のためにすべてを完成してくださっていた、神の愛が私に託されていた、という驚くべき気づきに根ざしています。キリストは私の救いと聖化のためにすべてを成就してくださいました(ローマ5:8英改訂版を参照)。どんなものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)とパウロが言うのもふしぎではありません。
 聖化が私をイエス・キリストと一つに結び付けてくれます。そしてキリストにあって神と一つに結ばれます。それはキリストのすばらしい贖罪によってのみなされることです。結果を原因と混同しないでください。私の中に生じる結果は従順と奉仕と祈りです。贖罪によって私の中に生み出された驚くべき聖化に対する言葉にならない感謝と賛美の結果であります。

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