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人はなぜこれほどに無知であることに自信を持っているのだろうか(1月29日)

『主よ。あなたはどなたですか。』使徒26:15

「主は強い御手をもって…私にこう仰せられた」(イザヤ8:11)。主が語られるとき、人は逃れることはできない。主の御声は常に理解せざるをえない形で来る。神の御声が直接あなたに臨んだことがあるだろうか。もしあるなら、あなたが最も良く知っている言葉でそれが語られ、神の親密で強い主張を聞き間違えるということはない。あなたの耳を通してというのではなく、あなたを取り巻く状況を通して語られるのである。
 神は私たち自身の信念に対する強い自信を先ず壊さねばならない。「私のなすべきことはこれだ」と思う時、私たちの無知の深さを暴露し、私たちを圧倒する形で、突然神の御声が語られる。神に仕えるのに私たちが決めてかかったまさにそのやり方において、私たちは神についていかに無知であるかを現わしている。私たちはイエスの精神ではない精神でもってイエスに仕えようとする。私たちはイエスのために代弁しようとしてイエスを傷つけている。私たちは悪魔の精神でイエスの教えを押しつける。私たちの言葉は正しいかもしれない。しかし精神は悪魔の精神である。「あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです」(ルカ9:55異本)と主は言われた。イエスの精神を代弁するときの精神はコリント第一の手紙13章に述べられている。
 私は自分のやり方でイエスに仕えるという熱い意志の強固さで、実はイエスを迫害しているのではないだろうか。もし私が自分の義務を成し終えて、しかもそれを行うことでイエスを傷つけたとするならば、それは自分の義務ではなかったと考えてよい。なぜならその行いはへりくだった静かな心を養っていたのではなく、自己満足の思いを抱いていたのだから。私たちはどんなことでもやりたくない事が自分の義務だと思ってしまう!しかし「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)という主のお心にそれは近いものだろうか。

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