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Archive for 3月, 2011

悲しみを乗り越えて

 アメリカの作家ソーントン・ワイルダーが書いた短編小説に「サン・ルイ・レイの橋」というものがあります。1927年に初版本が出版され、それ以来読み継がれてきています。これはご存じの方もいらっしゃると思いますが、南米ペルーのリマ郊外で起きた橋の崩壊事故を題材として書かれたものです。サン・ルイ・レイという名前の橋は大変美しいものであったそうです。その橋はインカ帝国が栄えた頃にできた橋で、1714年に崩壊しました。その時にちょうど橋の上を通行していた5人の人が犠牲になるという話です。事故を目撃した一人のフランシスコ会派の修道士が一つの疑問を抱いたのです。橋の崩落の時にちょうどその上に歩いていた人々は偶然そこにいたのか、それとも背後になんらかの神の意志が働いていたのか、という宗教的、形而上学的な疑問です。そこで彼はその5人の過去について多くの人々にインタビューを行い、彼らの性質や過去と事故との間につながりがあるかどうかを見極めようとするのです。そして膨大な書物を作り上げました。その事がフランシスコ会派の諮問委員会の怒りに触れてその書物は焼かれてしまいます。そして彼も処罰を受けるのです。その一方で、橋の崩落の犠牲者の遺族たちはそれぞれの悲しみをかかえて悩み苦しむのですが、一人のアベスという遺族が、他の遺族の所を訪問します。この悲しみを真に理解してくれるのは同じ悲しみを体験した人だけだと思うからです。そして、訪問してみると、遺族の一人はカトリックの修道女で、孤児院で孤児たちや病人の世話を忙しくしているのでした。その献身的な奉仕の姿にふれてアベスは深く感動するのです。そして小説の最後でこう言わせています。「生者の国と死者の国があり、その二つをつなぐ橋は愛である。それだけがいつまでも続くものであり、それだけが意味のあるものだ。」
 今回の大震災を思う時、この作品を再び思い出します。結局私たちには分からない事が沢山あり、神だけがご存じの世界がある。しかし、悲しみを抱えながらも愛に生きることだけが人生に意味を与え、愛だけがいつまでも残るものだという聖書の真理が改めて響いて来ます。

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この世で最も繊細な働き   (3月25日)

『花婿の友人。』ヨハネ3:29

 性質の良さとか心の聖さが人の注目を得るようであってはいけない。それらは単に人々の目をイエス・キリストに向けさせる磁石である。もし私の聖さが人々の目を主に向かわせていないなら、それは正しい意味でのホーリネスではない。過度な愛着を持たせて、たましいをわき道にそらせてしまう結果となる。もしイエス・キリストを現わさず、キリストがしてくださったことだけを人に示すなら、すばらしい聖徒も信仰の妨げとなる。「あの人はなんというすばらしい性質の持ち主だろう」という印象だけを残す。花婿の友人になるとはこういうことを意味していない。キリストではなく自分が盛んになっているのである。
 花婿との友情と誠実を保つためには、イエスとの生きた心の交わりを他のなによりも大切にすることにさらなる注意を払わねばならない。キリストに従うことよりも。時にはなにも従う必要のない時もある。交わりをさまたげるものが何もないことを確認するために、イエス・キリストとの生きた交わりを保つことだけが必要だという時がある。私たちが従わなければならないのは時たまである。危機が生じると神のみ意志を見出さねばならない。しかし、人生のほとんどは意識的な従順ではなく、花婿の友人としての関係を保つということにある。キリスト者としての奉仕がイエス・キリストに集中するのを妨げている場合がある。花婿の友人になる代わりに、神のみ意志をかってに考えだして、神の武器を用いて神のみ意志と反対のことをしている場合さえもある。

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2010年3月21日 福江等牧師 メッセージ

2010年3月21日

説教題 「モーセの十戒」

聖書箇所 出エジプト記20:1-7

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