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Archive for 2月, 2011

創立37周年記念コンサート

創立37周年記念コンサート

このすばらしいピアノコンサートをお楽しみください。

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夢想に対する神の働きかけ (2月20日)

『立ちなさい。さあ、ここから行くのです。』ヨハネ14:31

 ある事を正しく行うために思いを巡らすということは間違っていない。しかし、行動すべき時になお逡巡することは間違っている。主イエスが弟子たちにすばらしい事がらを語られた後で、弟子たちにそれらの意味を黙想してきなさい、と主が言われる事を私たちは期待するかもしれない。しかし主イエスは無為に過ごすことを決して許されたことはない。私たちが神のみ意志を知るために神に近づくとき、いろいろと思い巡らすことは間違っていない。しかし、私たちがなすべきことを聞いた後で、なおその事について逡巡することで時を過ごす傾向にあるとすれば、それは間違っており、神の祝福は決してそこにはない。神の働きかけは常にこのようなぼんやりと夢想する態度に一撃を加える性質を持っている。私たちが「座るのでもなく立つのでもなく、行く」ことを命じる一撃である。
 もし私たちが神のみ前に静まってみ心を求めていて、神が「あなたがただけで、寂しい所へ行」きなさいと言われるなら、それは神のみ心を見出す為の黙想の時である。しかし、神がすでに語ったのであれば、そのことについて単に夢想するようなことのないように注意しなさい。神をあなたのあらゆる夢と喜びと楽しみの源として、神の言われた事に従って出て行きなさい。もしあなたが誰かを愛しているなら、その人のことをいつまでも座って夢想するということはしないであろう。その人のために出かけて行って何かをするはずである。イエス・キリストが私たちに求めておられる事もまさにそれである。神が語られた後もぼんやりと過ごすとすれば、それは私たちが神を信頼していないということの徴候である。

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霊的粘り強さの訓練 (2月22日)

『やめよ。わたしこそ神であることを知れ。』詩篇46:10

 粘り強さというものは忍耐力だけではない。それは忍耐力プラス期待している事が必ず実現するという確信である。粘り強さとは逃げ出さないというだけのことではない。逃げ出さないというのは離れるのが怖いからという弱さを現わしているに過ぎないのかもしれない。粘り強さとは自分の主イエスの敗北を決して信じない至高の努力のことである。人の最大の恐れは地獄に落ちるかもしれないということではなく、イエス・キリストが敗北するかもしれないということである。つまりイエスがいのちをかけた愛とか、正義、赦し、人への思いやりなどが、最終的には敗北し、イエスがいのちをかけた事柄が幻影に見えるということである。霊的粘り強さが求められるのはまさにこの時である。ただ逃げ出さず、なにもしないというのではなく、神は敗北しないという確信に断固として立つことである。
 今この瞬間にあなたの希望や計画がだめになりそうであるなら、それはそれらがきよめられているということである。人の心が望み、夢見る高貴なことで成就しないものはなにもない。人生における最大の重圧は神を待つという重圧である。「あなたがわたしの忍耐について言ったことばを守ったから」と主から言われる者となりたい。
 霊的に粘り強い人となりなさい。

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