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Archive for 1月, 2011

韓国料理教室 2月14日(月)午前10時半より

韓国料理を作ってみませんか。本場韓国から10名の方々が応援参加してくれます。セサン中央メソジスト教会の方々です。韓国料理の代表的な者、ビビンバとチヂミの二つを習って、ご一緒に味わってみましょう。

会場:高知加賀野井キリスト教会
    高知市加賀野井2-5-5 
    電話&FAX:088-823-7776
日時:2月14日(月)午前10時半より午後1時ころまで
参加費:500円
参加されたい方はお電話かFAXで、あるいはこのホームページに2月9日(水)までに応答してください。Eメールでhfukue@eos.ocn.ne.jpにご連絡くださってもかまいません。
募集人員:20名
ぜひ、この機会に韓国の方々と交流をして、料理を通して良き文化の交流をいたしましょう。学んだ韓国料理をご家族のためにもどうぞ作ってあげてください。それではご来会をお待ちしています。

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人はなぜこれほどに無知であることに自信を持っているのだろうか(1月29日)

『主よ。あなたはどなたですか。』使徒26:15

「主は強い御手をもって…私にこう仰せられた」(イザヤ8:11)。主が語られるとき、人は逃れることはできない。主の御声は常に理解せざるをえない形で来る。神の御声が直接あなたに臨んだことがあるだろうか。もしあるなら、あなたが最も良く知っている言葉でそれが語られ、神の親密で強い主張を聞き間違えるということはない。あなたの耳を通してというのではなく、あなたを取り巻く状況を通して語られるのである。
 神は私たち自身の信念に対する強い自信を先ず壊さねばならない。「私のなすべきことはこれだ」と思う時、私たちの無知の深さを暴露し、私たちを圧倒する形で、突然神の御声が語られる。神に仕えるのに私たちが決めてかかったまさにそのやり方において、私たちは神についていかに無知であるかを現わしている。私たちはイエスの精神ではない精神でもってイエスに仕えようとする。私たちはイエスのために代弁しようとしてイエスを傷つけている。私たちは悪魔の精神でイエスの教えを押しつける。私たちの言葉は正しいかもしれない。しかし精神は悪魔の精神である。「あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです」(ルカ9:55異本)と主は言われた。イエスの精神を代弁するときの精神はコリント第一の手紙13章に述べられている。
 私は自分のやり方でイエスに仕えるという熱い意志の強固さで、実はイエスを迫害しているのではないだろうか。もし私が自分の義務を成し終えて、しかもそれを行うことでイエスを傷つけたとするならば、それは自分の義務ではなかったと考えてよい。なぜならその行いはへりくだった静かな心を養っていたのではなく、自己満足の思いを抱いていたのだから。私たちはどんなことでもやりたくない事が自分の義務だと思ってしまう!しかし「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)という主のお心にそれは近いものだろうか。

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福江等牧師メッセージ動画

福江等メッセージ動画①

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神のご性質から出るみ声  (1月16日)

『私は、「だれを遣わそう。…」と言っておられる主の声を聞いた…。』イザヤ6:8 

 神の呼びかけということを語る場合、私たちは大変重要な局面を忘れやすい。すなわち、呼びかけられるお方のご性質という局面である。海には海の呼びかけがあり、山には山の呼びかけがあり、氷壁には氷壁の呼びかけがある。しかし僅かの人だけがこれらを聞くことができる。呼びかけとはそれが発せられるものの性質の表現である。そしてその呼びかけを記録できるのは同じ性質が私たちの中にある時に限られる。神の呼びかけとは神のご性質の表現であって、私たちの性質の表現ではない。私たちのために摂理的に起こる一連の神の呼びかけというものがあり、私たちは気付くが他の人はだれも気付かないことがある。それはある具体的な事柄の中で私たちに届く神の声であるから、他の人に相談しても役に立たない。私たちはそのような深い関係を私たちのたましいと神との間で保たねばならない。
 神の呼びかけは私の性質が反映したものではない。私の嗜好とか気質とかは関係ない。自分の気質を考慮して自分が何に向いているかを考えている限り、神の呼びかけを聞くことは決してない。しかし、神との関係の中に導き入れられると、イザヤと同じ境遇に入る。イザヤのたましいは彼の経験した途方もなく大きい危機を通して神と十分調和していたので、驚くべきことに彼は神の呼びかけを書きとめることができた。ほとんどの人は自分の言うこと以外聞く耳を持たないので、神の語られる事は全く聞くことができない。神の呼びかけを聞く領域に導き入れられるということは、徹底的に変えられるということである。

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