The Website of Hitoshi "Paul" FukuePosts RSS Comments RSS

Archive for 11月, 2010

「牧師の小窓」 あなたもあなたの家族も

チャペルコンサートの後で、2010年11月14日

 先週の日曜日は加賀野井教会の創立37周年記念礼拝を行う事が出来たことを心から感謝いたします。この日のために東京からピアニストの藤井みどり姉が応援に来てくださり、すばらしいピアノの演奏をしてくださいました。当日は思いがけずご近所の方々も大勢来てくださり、秋晴れの日曜日、心に響くチャペルコンサートを持つことができました。ピアノの演奏を聞きながら涙を流している人もいました。藤井姉のピアノ演奏は祈りと信仰から出ているもので、神様の栄光のために自分の賜物を捧げて弾いていますから、自ずと聴く人々の心が神様の方に向いて行きます。演奏の間に語ってくださいました証しを少し思い起こしたいと思います。最初に話されたのは藤井姉の祖父、諌山修身(のぶみ)牧師のことです。諌山先生は少年のころ、貧しい境遇に育ち、そこから脱却するためにアメリカに単身渡りました。かの地でひと儲けして金持ちになって故郷に錦を飾ることが少年の夢でありました。カルフォルニアあたりで働いていたところ、ある時ロスアンゼルスの街角でキリスト教の路傍伝道に出くわし、そこでイエス・キリストに捕らわれたのでした。その時から人生の目的が180°変わり、キリストのために身を捧げるようになったのです。後に日本に帰ってこられてから各地に教会を建て上げ、最後は東京の尾山台に立派な教会と幼稚園を設立されました。私どもが以前牧会をさせていただいたことのある教会であります。諌山青年がひとりキリストに捕えられたことによって、その家族、親族が4世代に渡って信仰をいただくこととなり、藤井みどり姉の信仰のルーツは祖父のロスアンゼルスでの救いの時に遡っています。一人の人がキリストに救われることによってどれほど大きな影響を後々の世代にまでもたらしているかということを証しされました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」というみことばの真実を見させていただきました。

No responses yet

「牧師の小窓」 万事益となる

藤井みどり姉

 先週の「牧師の小窓」でチャペルコンサートでピアノを演奏してくださった藤井みどり姉の証しを詳しく記してみました。もう一つの証しをされていましたので、それも記しておきたいと思います。聞いただけでは忘れやすいと思いますので、改めて書きとめておきます。その証とは藤井姉のお父さんの事でした。お父さんは聞くところによるとトランペットがとても上手であったそうです。伝道集会などでよく演奏していたそうです。そのお父さんが戦争に行かれ、目を負傷されたのでした。片目を失明したのです。子供心に父親の片目が不自由であるということが、悲しくてなかなか受け入れられなかったと言います。どうしてこんなことになったのかと子供時代はずっと腹立たしく感じていたのだそうです。ところが、藤井姉が高校を卒業して音楽大学に進みたいと思った時、授業料をどう工面すればいいか、という時になってはたと困ってしまった。その時、彼女のピンチを救ってくれたのが、父親の恩給であったのです。戦争で負傷したことによって国から支給される恩給が彼女のピアノの技術を磨くための授業料に用いられたのでした。父親の片目が見えなかったことが彼女にとってなかなか受け入れられない現実であったのですが、その現実が彼女の人生にとって大きな意味を持つ助けになるという事実に変化したのです。
 そのことから、彼女は人生で悲しいと思う事や苦しいと思う事も、神様の大きなご計画の中では、万事益となる、という聖書の真理を痛感したのでした。私たちは近視眼的に物事を見ることが多いのですが、そして、そのために一喜一憂しやすいものです。神様を愛する人にとっては、悲しいと思う事、苦しいと思う事そのものが、神様の手によって私たちの助けと変えられていくという聖書の真理は、私たちの物の考え方、生き方そのものを変えていく力を持っています。そのためには、「神を愛する」という、神様と信仰で結びつくことが不可欠であります。神様と信仰で結びつくことによって近視眼的見方から解放されて、耐える力、信頼する心が養われていくのではないでしょうか。

No responses yet

浅いこと、深いこと  (11月22日)

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』1コリント10:31

 日常の浅く表面的な関心事は神によって授けられているものではないと考えてはいけない。深刻な事柄と同じように神によって授けられているものである。深みのない人間になりたくないと思うのは、あなたが神に対して献身しているからではない。浅はかな人間ではないぞということを他人に印象づけたいからである。そうすることはあなたが霊的にものしりぶった人であることの確かなしるしである。心の中に人を軽視する気持ちが生じないように注意しなさい。霊的高ぶりは常にこのような気持から出てくる。そして、他人があなたより浅いからという理由で、いたるところで他人を非難する人間になる。深みのある人間だというポーズを取らないようにせよ。神は「赤子」になられたのだから。
 浅いということは悪であるという印ではない。浅いからといって深いところがないわけでもない。海には岸辺もある。食べることとか飲むこと、歩くこととかしゃべることといった、生活を楽しくさせるちょっとしたことは、すべて神によって与えられたことである。主イエスはこういったことの中に生きておられた。主は神の御子としてこういったことの中に生きられた。その主が「弟子はその師にまさらない」と言われたのである。
 浅い事柄の中に私たちを守ってくれるものがある。私たちは表面的で常識的な日常を常識的に生きる必要がある。深い事柄がやってくるとき、神はそういった事がらを日常の浅い関心事とは別に私たちにもたらされる。深みを神以外の誰にも見せるな。私たちはあまりにも深刻で、自分の評判にあまりにも極端な関心を持っているため、日常の浅い事柄においてキリスト者として振舞おうとしない。
 神以外はだれをも深刻に受け止めないと心に決めなさい。そしてあなたがかつて知り得た最悪のぺてん師として関係を持たないようにすべき最初の人間は――あなた自身である。

No responses yet

信仰による義認  (10月28日)

『もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』ローマ5:10

 信じることによって救われるのではない。信じることによって救われていることに気がつくのである。悔い改めが私を救うのではない。悔い改めとは、神がイエス・キリストにあって何をしてくださったかに私が気づいたことのしるしである。原因にではなく結果を強調しようとする危険がある。私の従順、私の献身によって神と正しい関係になると考えてしまう。とんでもない!神と正しい関係になれるのは、なによりも先にキリストが死んでくださったからなのだ。私が心を神に向け、私が受け入れられる神の啓示を信仰によって受け入れるとき、即座にイエス・キリストの驚くべき贖(あがな)いが私を神との正しい関係の中に入れてくださる。そして神の恵みの超自然的奇跡によって私は義とされた者となる。私が自らの罪を詫びたからではない。私が悔い改めたからではない。イエスがしてくださったことのゆえにである。神の御霊がそれを圧倒的なあふれる光と共にもたらし、どのようにしてか分からないが、自分が救われていることを知るのである。
 神の救いは人間の論理に基づくものではない。それはイエスの犠牲的死に基づくものである。私たちが生まれ変われるのは主の贖(あがな)いのゆえである。罪人が新しい被造物に変えられるのは、悔い改めによるのでもなければ信仰によるのでもない。すべての経験に先行するキリスト・イエスにある神の驚くべきみわざによるのである。義認と聖化のゆるぎなき土台は神ご自身である。これらのことを自分の力で達成する必要はないのだ。「贖(あがな)い」によってすでに達成されたのである。超自然的なことが神の奇跡によって自然なことになるのである。イエス・キリストがすでに成し遂げてくださったこと、「完了した」と言われたことが何か分かるようになるのである。

No responses yet