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Archive for 10月, 2010

いかにして知ることができるか (10月10日)

『父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』マタイ11:25

  霊的関係においては徐々に成長するということはない。霊的であるか、否かのどちらかしかない。神は私たちを罪から次第々々にきよめるのではなく、私たちが光の中におり、光の中を歩んでいるなら、私たちはすでにすべての罪からきよめられているのである。従順が鍵であり、それがなされるや否や関係は全きものとなる。従順から一瞬でも離れるや否や、暗闇と死が即座に始まる。

 私たちの従順によって開かれるまでは、神の啓示はすべて封じられている。哲学や思考によって開かれることは決してない。あなたが服従するや否や閃光が投げかけられる。悩むことによって神の真理に達するのではなく、そこに身を沈めることによって見出しなさい。真理を知る唯一の方法は、それを見つけようと努力することを止めて、生まれ変わることだ。神があなたに示しておられることで神に従いなさい。すると直ちにその次のことが明らかになる。聖霊について何冊もの本を読んでも分からないことが、五分間思い切って神に服従するとき白日のごとく明らかになるだろう。「こういったことは、ま、いつか分かるようになるだろう。」と思っているかもしれない。そうではなく今ただちに分かるのである。勉強したから分かるというのではなく、従うことなのだ。わずかの従順で天が開き、神の最も深遠な真理がただちにあなたのものとなるのだ。あなたがすでに知っている真理に従うまでは、神についてさらに深い真理が啓示されることはない。「賢い者や知恵のある者」にならないように注意しなさい。

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再生の力   (10月6日)

『神が・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、』ガラテヤ1:15,16

 イエス・キリストが私を再生しようとされるとき、キリストはいかなる問題に直面されるのだろうか。私は自分でどうすることもできなかった罪の遺産を受け継いでいる。つまり、私は聖くないし、将来聖くなる見通しもない。しかも、もしイエス・キリストのできることが、「聖くなりなさい」と私に告げることだけであるなら、その教えはただ絶望を植え付けるだけである。しかし、もしキリストが「再生させるお方」、つまりご自身の聖なる性質を私の中に入れることのできるお方であるなら、「聖くあらねばならない」と言われる意図を理解できるようになる。「贖い」とはイエス・キリストがご自身の中にある性質をいかなる人にも入れることができることを意味するのであり、イエスが与えるすべての基準はその性質に根ざしている。キリストの教えは私たちの中に入れてくださるご自身のいのちのためにある。私の側でなすべき道徳的行為とは、神がイエス・キリストの十字架でなされた罪に対する審判に同意することである。

 人が霊的渇きに打たれるとき、神がその人のたましいの中に聖霊を注ぎ、「キリストがあなたがたの中に形造られるまで」その人のたましいを神の御子のみ霊によって奮い立たす、というのが再生に関する新約聖書の教えである。私が全く新しいいのちを生きることができるために神が私の中に新しい性質を入れることができるということが、「贖い」という心の奇跡である。私が飢え渇きでどうしょうもなくなり、自分の限界を知るようになると、「あなたは幸いです」とイエスが言われる。しかし、私はそこに行きつかねばならない。私がその必要性を意識しなくては、神が道徳的に責任ある人としての私の中にイエス・キリストのご性質を入れることはできない。

 ちょうど一人の人を通して人間に罪の性質が入ったように、別な「人」(キリスト)を通して聖霊が人間の中に入られた。そういう訳で、「贖い」とは私が罪の遺産から救い出され、イエス・キリストを通して汚れなき遺産、つまり聖霊を受けることができるという意味である。

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すべてを捨てて「行け」 (9月27日)

『主よ、私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』ルカ9:57

 主は人間の心の中になにがあるかご存じであったので、この人に対する主の対応は深い失望をもたらすものであった。私たちなら、「この人をせっかく弟子にできるチャンスであったのに!」と言うかもしれない。せっかくのチャンスに冷たい北風で彼を凍えさせ、「失望させて去らせるとは!」なんともったいない、と。しかし主のために釈明をする必要は全くない。主のみことばは完膚なきまでに人を傷つける。イエス・キリストは神の奉仕をする人間を究極的には滅ぼすことになるようなことに対してまるで優しさを持ち合わせていない。主のお答えはその時の気分から出ているものではなく、人間の中になにがあるかをご存じの上で語られているのである。もし神のみ霊があなたの心を傷つけるような主のみ言葉をもたらしているならば、神があなたから取り去ってしまいたい何かがあると考えてまちがいない。

58節。ここにあるみ言葉は、楽しいからイエス・キリストに仕えているのだという心を打ち砕く。厳しい主の拒絶の後に残るものは、主と私と、そして失われた希望である。「多くの人がついて来ようが来まいが、あなたの道しるべの星は私との関係であらねばならない。そして私には枕する所もないのだ。」

59節。この人はイエスを失望させたくはなかったし、父親の気持ちを傷つけたくもなかった。私たちはイエス・キリストへの忠誠の代わりに身内への不安定な忠誠を優先し、イエスを最後に置く。忠誠心が衝突する時は、なにがあってもイエス・キリストに従いなさい。

61節。「はい、主よ。でも・・・」という人は心は熱く備えられているが、決して出て行こうとはしない。この人には一つか二つ心にかかる事があったにすぎない。しかしイエス・キリストの厳しい召命においては人に別れを言う余裕はない。なぜならよく使われる意味での別れとはキリスト教的ではなく、異教的なものだから。ひとたび神の召命が臨みはじめたら、歩きだせ。そして決して立ち止まってはならない。

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試みに何の意味があるのか?  (9月17日)

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。』1コリント10:13

  試みという言葉は地に落ちてしまい、私たちはこの言葉を間違って使う傾向がある。試みとは罪ではなく、私たちが人間であるかぎり必ず出合うものである。試みに合わないという人は軽蔑にも値しない。しかし、多くの人が悩む必要のない試みで悩んでいる。なぜなら、別な種類の試みに直面するであろうより高いレベルへと、神によって引き上げてもらうことを拒んでいる、という単純な理由からである。

 人の内側の性質、つまりその人のパーソナリティが、外面的に何によって試みを受けるかを決める。試みは試みを受ける人の性質に符合しており、その性質の可能性を現わしている。だれしも自らの試みの場を持っており、その人の主な性質に沿って試みが来る。

 試みとは私の最高の目標を成就するための近道が暗示されるということである。それは私が悪しきことだと知っていることではなく、善きことだと知っていることに向けて来る。試みは私をしばらくの間完全に途方に暮れさせる。その事が善いことなのか悪しき事なのか分からなくさせる。試みに負けるとは欲望を神格化することであり、それまで罪を犯さなかったのは臆病さのためであったことが判明する。

 試みからは逃れられるものではなく、充実した生活に不可欠なものである。他のだれも通った事がないような試みに自分が試されているなどと考えてはいけない。あなたが経験している事は人類が共通して受け継いでいるものであり、だれも経験したことのない類のものではない。神は私たちを試みから救い出してくれるのではなく、試みのただ中で御手を差しのばしてくれるのだ(ヘブル2:18)。

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