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Archive for 9月, 2010

主のもの!  (9月4日)

『彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしにくださいました。』ヨハネ17:6

  「あなたはあなた自身のものではない。」という認識を聖霊によってその心に形成された人が宣教者である。「わたしは私自身のものではない。」と言えることは、霊的気高さにおいて偉大な地点に到達したことを意味している。別なお方を最優先してその方に自分を意図的にささげること、それが現実の揺れ動く日々の中における霊的いのちの本質である。その別なお方とはイエス・キリストである。聖霊は私が主と一つとなるためにイエスのご性質を私に詳しく説明してくださる。それは私が見世物となって出て行くためではない。私たちの主は、そのなしたわざを根拠として弟子を遣わされたことは一度もない。弟子たちが聖霊の力によってイエスが誰であるか理解したのはイエスの復活後であり、その時はじめて弟子たちに「行け」と言われたのである。

 「わたしのもとに来て、・・・憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」とイエスは言われている。善良で潔白な人になれないというのではない。イエスが「わたしのもの」という言葉をその人の心に書くことができないという意味である。主がここで述べられる人々との関係は主と張り合うような関係かもしれない。私は母や妻やあるいは自分自身のものでありたいのかもしれない。もしそうであるなら、イエスの弟子となる事はできないと主は言われる。これは私が救われないかもしれないというのではない。私が「主のもの」になれないという意味である。

 主は弟子をご自身のものにされる。主がその人の責任を取られる。「あなたがたはわたしの証人となります。」私たちが受ける霊は私たちを主にとって全き喜びとする霊であって、主のために何かをする霊というのではない。私は主のもの、主は私を通してご自身のご計画を行っておられる、という意識が宣教者の秘訣である。

 完全に主のものとなれ。

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友情の豊かさ  (8月25日)

『わたしはあなたがたを友と呼びました。』ヨハネ15:15

  すべての細かい点において自己放棄をするまでは自己犠牲の喜びを知ることは決してない。最も難しい事は自己を明け渡すということである。「もし・・・ならするのだが!」と条件をつけたり、「やれやれ、神に自分の人生をささげないといけないんだろうな。」といった思いでは、自己犠牲の喜びは全く見出されない。

 私たちが自己を放棄するやいなら、聖霊がイエスの喜びの秘密を与えてくれる。自己犠牲の最終的目標は私たちの「友」のためにいのちを投げ出すことである。聖霊が心に入ると、イエスのためにいのちを捨てることが強い願いとなる。そして犠牲という思いは全く浮かぶことがない。なぜなら、聖霊の情熱が犠牲であるから。

 自己犠牲の人生においては私たちの主が模範である。「わが神。あなたのみこころを行うことがわたしの喜びです。」と主は言われる。イエスはあふれんばかりの喜びをもって自らを犠牲にされた。イエス・キリストに対して全き服従をもって自分を放棄したことがあるだろうか。イエス・キリストが道しるべの星となっていないなら、犠牲を払っても意味がない。しかしイエスにしっかりと目をとめて犠牲を払うと、ゆっくりと着実に人格形成に影響を受けていることが明らかとなる。

 生来の好みによってあなたの愛の歩みが妨げられないように気をつけなさい。人間として自然な愛を台無しにする最も残酷な方法は、生来の好みによって形成された軽蔑によるものである。聖徒の好みは主イエスである。神への愛は感傷的なものでない。聖徒にとっては神が愛するように愛することは最も実際的なことであるから。

 「わたしはあなたがたを友と呼びました。」それは私たちの内に創造された新しいいのちに根ざす友情である。その新しいいのちには古いいのちへの愛着はなく、神のいのちへの愛着だけがある。言葉にできないほど謙遜で、しみ一つなく純粋な、そして神に対して完全に自己を捧げきった友情である。

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自意識   (8月19日)

『私のところに来なさい。』マタイ11:28

  キリスト・イエスにあって充実したいのちを生きることが神のみこころである。しかしそのいのちが外部から攻撃を受ける時がある。すると無くなっていたと思っていた内省の世界に転がり落ちる。神にあるいのちの充実感を損ねる最初のものが自意識である。そして自意識は絶えず葛藤をもたらす。自意識が罪と言うのではない。それは神経質な性質や、あるいは新しい環境に突然出くわしたことによるのかもしれない。私たちが神にあって完全に満ち満ちている以下のことは決して神のみこころではない。主にある平安を乱すものは即座に修復されなければならない。それを無視することによって修復できるものではなく、イエス・キリストのところに来ることによって修復されるのである。主のところに来てキリストを意識する心が生まれることを願うなら、私たちが主にとどまることを学ぶまで、主はいつもその願いに応えてくださる。

 キリストにあるあなたのいのちが決して裂かれたままにしておかず、そのことに直視するのだ。どこからほころびたのか、友人かあるいは環境の影響によってあなたのいのちが裂かれたのか、主と一つであるあなたのいのちを割いて自分を個別の者として見させているものは何か、見極めなさい。霊的に正しい状態にあること以上に重要な事はない。偉大な解決法は単純なものである。「私のところに来なさい。」である。私たちの知的、道徳的、霊的な本質の深さはこの言葉によって試される。私たちがイエスのところに来るよりも議論をしようとするのは、それだけ私たちが本物でないことを示している。

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「父」が聞いてくださる祈り

『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。』ヨハネ11:41

 神の御子が祈られた時、ただ一人の方だけを意識されていた。その方は御子の「父」である。神はいつも御子の祈りを聞いてくださる。もし、神の御子が私の中に形作られているなら、「父」は常に私の祈りを聞いてくださる。神の御子が私の朽つべき肉体に現れされていることを知るべきである。「あなたがたのからだは聖霊の宮です。」つまり、神の御子を宿すベツレヘムである。神の御子はわたしの中で生きる機会を得ているだろうか。神の御子が地上におられた時に生きられたと全く同じように、御子のいのちの真の素朴さがわたしの中で生きられているだろうか。普通の人として日常の様々な出来事に接する時に、「父」に対する神の永遠の御子の祈りがわたしの中で祈られているだろうか。「その日にはあなたがたはわたしの名によって求めるのです・・・。」その日とはいつのことであろうか。聖霊が私の心に入り、私が主と実際にひとつにされた日である。

 主イエス・キリストはあなたの人生に十分満足しておられるだろうか。それともあなたは霊的なプライドを持っているのではないだろうか。常識で神の御子を隅へ決して追いやってはいけない。常識とは神が人間に与えられた賜物である。しかし常識は神の御子という賜物とは異なる。超自然の感覚が御子の賜物である。決して常識を王座に据えてはいけない。御子は「父」に気づく。しかし、常識は「父」に気づいたことはないし、これからも気づく事は決してない。私たちの普通の知性は内住の神の御子によって変えられない限り、神を礼拝することへは決して向かわない。この朽つべき肉体が神に完全に服従し、神が絶えずそれを通して働かれていることを知るべきである。私たちは主のいのちが絶えず現れるように、イエス・キリストにそのように信頼しつつ生きているだろうか。

 

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