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Archive for 8月, 2010

幻滅という鍛錬 (7月30日)

『イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスは…人のうちにあるものを知っておられたので…。』ヨハネ2:24-25

  幻滅を経験すれば人生において間違った判断をしないようになる。しかし、幻滅したことによって「もう騙されないぞ」という姿勢は、他人を測る上で冷笑的になり、思いやりのない厳しさを持つ者になる可能性がある。一方、神から来る幻滅を抱くなら私たちは人をありのままで見られるようになる。それでいて冷笑はなく、人を言葉のとげで刺すこともない。人生における苦痛の多くは、思い違いで悩むことから起こる。私たちは互いの「ありのまま」を信頼しているのではない。互いに対する自らの「想像」を信頼しているのである。私たちの想像に従って、すべては快く好ましいものになることもあれば、意地悪く卑劣なものになったりもする。

 幻滅したくないという思いが人生のほとんどの苦しみの原因である。すなわち次のように気持ちが動いていく。もし私たちがある人を愛してはいるが、神を愛していないとすれば、私たちはその人から完璧さや正しさを要求するようになる。ところがそれを得られないと、私たちは残酷になり恨み深くなる。それはつまり人が私たちに与えることができないことを要求しているのである。人間の心の深淵にある苦痛のきわみを癒してくださるお方はお一人しかいない。それは主イエス・キリストである。主がすべての人間関係について明らかに非常に厳しくされているのは、主に対する忠実に根ざしていないすべての人間関係は悲惨な結果になることを主がご存じであるからだ。主は誰をも信頼されなかった。しかし、主は決して人を疑わず、決して辛辣でもなかった。主イエスが神に対して持つ確信、神の恵みが人に及ぼすものへの確信が完全であったので、主は誰に対しても望みを失う事はなかった。もし私たちが人間に信頼を置くならば、あらゆる人に失望する結果になるであろう。

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神の臨在により頼む (7月20日)

『主を待ち望む者は…歩いても疲れない。』イザヤ40:31

  歩くことに別にスリルはない。それは安定した生き方があるかどうかの試金石である。「歩いても疲れない」というのは人間の到達しうる最高の力である。「歩く」という言葉は聖書の中では生き方を表現している。『ヨハネは自分の方にイエスが歩いて来られるのを見て言った。「見よ、神の子羊。」』聖書の中には抽象的なものは何もない。常に生き生きとしていて具体的である。神は「霊的でありなさい」とは言われない。「私の前を歩みなさい」と言われる。

 私たちが肉体的にあるいは感情的に不健康な状態にある時は、常にスリルを求める。肉体的な領域ではこれは聖霊と似て非なるものへと導く。感情的領域ではこれは極端な愛着と道徳心の腐敗へと導く。そして霊的領域では、もし翼をかって昇りたいと言うようなスリルを持つ事に固執するなら、それは霊性の破壊をもたらすであろう。

 神の臨在の真実は私たちがどこにいるかで決まるのではなく、常に主を自分の前に置くという心の決断によるのである。私たちが神の臨在の真実により頼むことを否定する時に問題が起こるのである。「たとえ…とも、私たちは恐れない」という詩篇の記者が語る経験は、私たちがひとたび神の臨在の「真実」に基礎を置くなら私たちのものとなる。神の臨在の意識ではなく、その真実である。つまり、「ああ、神はずっとここにおられたのだ!」という真実である。

 危機的な時には導きを求めることも必要だが、いつも「おお、主よ、私をここへ、あそこへ導きたまえ」と祈る事は不必要であるはずだ。むろん神は導いてくださる!もし私たちの常識的決断が神のみこころにそぐわないものならば、神は圧力を加えて私たちの心を探られる。その時は私たちは静かにして神の臨在の導きを待たねばならない。

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