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Archive for 7月, 2010

霊的聖徒     (7月11日)

『私は、キリスト…を知り…』ピリピ3:10

  聖徒を動かしているものは自己実現ではなく、イエス・キリストを知りたいということである。霊的聖徒は状況を決して単なる偶然とは信じない。あるいは自分の生活を聖と俗に分けて考えることをしない。聖徒は自分の置かれた状況のすべてをイエス・キリストについて知るための手段だと見ている。

 聖徒には思い切った自己放棄がある。聖霊は私たちが生活のあらゆる局面においてイエス・キリストを見出してほしいと堅く決意しておられる。私たちがそうするまで聖霊は何度も何度も同じところへ私たちを連れ戻す。自己実現を優先すると仕事をあがめるようになる。これに対して聖徒は自らの仕事の中でイエス・キリストをあがめる。それが食べる事であれ、飲むことであれ、あるいは弟子たちの足を洗う事であれ、何であれ、私たちはその中で率先してイエス・キリストを見出さねばならない。私たちの具体的生活のあらゆる局面はイエスのご生涯の中に対応するものがある。私たちの主は召使のするような仕事の中にも「父」との関係を見出しておられた。「イエスは、…ご自分が父から来て父に行くことを知られ、…手ぬぐいを取って…弟子たちの足を洗い…始められた。」

 霊的聖徒の生きる目的は「キリストを知る」ことである。今日私のいるところでキリストを見出しているだろうか。もし見出していないならば、キリストを失望させていることになる。私が生きているのは自分を実現するためではなく、イエスを知るためである。クリスチャンの働きにおいてその動機はしばしば何かをしなければならない、私がしなければならない、という思いがある。それは決して霊的聖徒の生きる姿勢ではない。聖徒の生きる目的は置かれている状況のあらゆる局面でイエス・キリストを確実に見出すことである。

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神を計算に入れよ  (7月5日)

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』詩篇37篇5節

  神を計算に入れよ。

 神は私たちが神を計算に入れずに考えた事を壊すことを楽しまれているかのようである。私たちは神によって導かれたのではない状況に入ることがある。そして私たちは神を計算に入れていなかったことに突然気がつく。神が生きた存在として介入していなかったのである。心配から私たちを守ってくれる一つの事は、私たちのすべての計画の中に神を最も重要な要素として迎え入れることである。私たちの信仰においては、神を第一にすることが通例になっている。しかし私たちの実際生活の諸問題の中に神を第一として入れる事は見当はずれだと思う傾向がある。もし神に近づくのに私たちは日曜日の礼拝のムードを持たないといけないと考えるなら、私たちは神に近づくことは決してできない。私たちは普段のありのままで神に近づかねばならない。

 悪を計算に入れるな。

 「愛は…悪を思わない」とあるが、神は本当に私たちが悪を思わないようにと言われているのだろうか。愛は悪の実在に対して無知ではない。しかし愛は悪を計算に入れないのである。神から離れれば、私たちは悪を考えに入れる。私たちは悪を計算に入れ、その視点から私たちのすべての考えを組み立てるであろう。

 取り越し苦労を計算に入れるな。

 あなたがイエス・キリストを信頼しているのなら、取り越し苦労をしてはいけない。イエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われた。これは「…なりません」という命令である。神があなたの心を騒がせないようにしてくれるのではない。心を騒がせなくするために一日の内に何回も何回も心の向きを変えなさい。神を第一にして、神を計算に入れる事が習慣となるまで。

 

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罪の現実を認めること   (6月24日)

『今はあなたがたの時です。暗闇の力です。』ルカ22:53

 人生にあらゆる悲劇が生まれるのは、罪という現実を認めないからである。人間性の高貴さが語られるかもしれない。しかし、人間性の中にはあなたの持てるあらゆる理想を真っ向から笑い物にする何かがある。人間性の中には悪があり、利己主義があり、まぎれもない悪意があり、邪悪さがあるという現実を否定し、それを認めないならば、その現実があなたに直面するとき、あなたはそれと妥協し、それと戦っても意味がないと言うだろう。今の暗闇の時と力を考慮に入れているだろうか、それとも罪の現実を見ずにいるのだろうか。あなたの肉体的関係や友情において、あなたは罪の現実を認めているだろうか。もし認めていないならば、もう間もなくその現実に直面するだろう。そしてあなたはそれと妥協することになろう。罪の現実を認めるならば、あなたはその危険性にすぐに気がつくであろう。「ええ、その意味が分かります」と言うだろう。罪の現実を認める事は友情の基盤を壊すものではない。人生の基盤は悲惨なものだという現実をお互いに尊重することにつながる。罪の現実を認めない人生観には常に気をつけるがよい。

 イエス・キリストは人間性を決して信用していなかった。しかし主は決して冷笑家でもなければ、疑り深くもなかった。なぜなら主は人間の性質を変えることができると完全に信じておられたからである。無垢ではなく純粋な人というのは罪から保護されている人のことである。無垢な人には決して安心できない。どうして無垢でおられようか。神の求めておられる事は私たちが純粋で高潔であることである。無垢とは子供の特徴である。大人が罪の現実を認めないということは非難に値することである。

 

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