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Archive for 6月, 2010

友人のために祈っているか  (6月20日)

『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、』ヨブ42:10

 「私は何が何でも義人になりたい」という哀れで、自分中心的で、病的な類の祈りは新約聖書には決して見出すことができない。私が神に対して義しい人間になろうとしていることは、「あがない」に反発しているしるしである。「主よ、もしあなたが私の祈りに答えてくださるなら、私は心のきよい者になります。もしあなたが私を助けてくださるなら、私は義しく生きていきます。」実際は私は自分で神に対して義しい者となることはできないのである。私は自らの生活を全きものとすることはできない。私が神のみ前に義しい者となりうるのは、主イエス・キリストの「あがない」を一方的な贈り物として受け入れるときだけである。それを受け入れるだけの謙遜さがあるだろうか。私はあらゆる主張を取り下げ、あらゆる努力を止め、自らを丸裸でキリストのみ手の中にゆだねなければならない。そしてその後で、祭司としての働きである取り成しの祈りに心を注ぎだし始めなさい。「あがない」を真に信じていないことから出てくる祈りが沢山ある。イエスは私たちをこれから救ってくださるのではない。イエスはすでに私たちを救ってくださったのだ。救いはすでに成就しているのである。にもかかわらずイエスに救ってくださいと祈るのはイエスを侮辱することである。

 もしあなたが百倍の実を結んでいないのなら、もし神のみことばから洞察を見出していないのなら、あなたの友人のために祈り始めなさい。心の奉仕を始めなさい。「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし」た。救われた者としてのあなたの人生の本当の仕事は取り成しの祈りである。神が色々な状況の中にあなたを置かれる時、いつでもすぐに祈りなさい。キリストの「あがない」があなたの人生において現実のものとなったように、他の人々の上にも現実のものとなるように祈りなさい。あなたの友人たちのために祈りなさい。あなたが接する人々のために祈りなさい。

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もうすぐそこに   (6月13日)

自分の好みが死に、聖別された者が人生を明け渡すところ

『わたしについて来なさい。』マルコ1:17

  イエスについて行く上で最大の妨げは気質という口実である。私たちは気質とか生来の好みとかのためにイエスについて行けないと言う。イエスのところに来て私たちが最初に気がつくことは、イエスは私たちの生来の好みには全く関心がないということである。

 私たちは自分の賜物を神にささげることができると考えている。自分のものでないものをささげることはできない。私たちが神にささげうるものはただ一つである。それは自分に対して持つ権利だけである(ローマ12:1)。あなたが自分に対して持つ権利を神にささげるなら、神はあなたを聖なる実験としてくださる。そして神の実験は常に成功する。聖徒の一つの特徴は、イエス・キリストに明け渡すことから生まれる心のオリジナリティである。聖徒の人生には常にこのオリジナリティが驚くほど湧き上がってくる。神の御霊は湧き上がる泉であり常に新鮮である。状況を導かれるのは神であることを聖徒は知っている。それゆえに愚痴は言わない。あるのはイエスに思い切り自分を明け渡すことだけである。      

 決して自分の経験をもとにして原則を作ってはいけない。神があなたに対してオリジナリティを引き出そうとしていると同じように、神は他の人々に対してもオリジナリティを引き出そうとしておられる。その神の働きを妨げてはいけない。

 もしあなたがイエスに自分を明け渡し、「わたしについてきなさい」と言われるイエスについて行くなら、イエスはあなたを通して「ついてきなさい」と言い続けられる。あなたはキリストの「ついてきなさい」という言葉を響かせながら生きる。それがイエスに自らを明け渡しついていく者の心に生まれるものである。

 私はイエスのところに来ているのだろうか。イエスのところに行くだろうか。

 

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父のざんげ

息子よ。聞いておくれ。お前の小さな手はお前の頬の下で丸くなり、巻き毛の髪は汗をかいた額の上にくっついて、寝静まっているお前に話しするから。お父さんはこっそりとお前の部屋に一人で入ってきたよ。ちょっと前、居間で新聞を読んでいる時に、重っ苦しい後悔の波が押し寄せてきたんだ。すまない思いでお前のベッドの側に来たのだよ。

 息子よ。お父さんが考えていたことはこうなんだ。お父さんはずっとお前に怒りっぱなしだったね。朝学校に行く準備をしている時、お前はタオルで顔をパタパタとするだけだったからお父さんはお前を叱ったね。お前が靴を磨いていないということでお父さんはまた叱ったね。お前がなにかを床に投げた時、お父さんは大声で怒ったね。

 朝食の時もお父さんはお前が食べ物をこぼした時、食べ物を飲み込んだ時、テーブルに肘をついた時、パンの上にバターをたくさんつけた時、お前を非難したね。それからお前が遊びに出る時、そしてお父さんが電車に乗るために出かけようとした時、お前は振り返って手を振り「パパ、いってらっしゃい!」って大きな声で言ったね。そのときお父さんは顔をしかめて「背中をまっすぐにして!」と返したよね。

 夕方、またまた同じことを繰り返したよね。お父さんが家に近づいてきた時、お前が四つん這いになってビー玉で遊んでいたところをお父さんはこっそりと見ていたんだ。見るとお前のソックスに穴が開いていたんだ。お父さんはお前をお父さんの前を歩かせて、友達の前で叱ってお前に恥をかかせたよね。『靴下は高いんだ。自分でお金を出して買うんだったら、気をつけるだろう!お父さんがどんなに大変か考えてみなさい!』と言ってお前を叱りつけたね。

 それから夕食後お父さんが居間で新聞を読んでいる時、お前がおずおずとなんか悲しそうな顔をして入ってきたのを覚えているかい。お父さんが邪魔されるのが嫌そうに新聞の上からちらっとお前を見た時、お前はドアのところでもじもじしてたよね。お父さんは「なんの用?」とぴしゃりと言ったよね。

 お前は何も言わず、ものすごい速さで走ってきて、お父さんの首に手をまわしてお父さんにキスをしてくれたね。お前の小さな腕はあったかかったよ。神様がお前の心の中に無視されても枯れることのない花を咲かせてくれたんだね。それからお前は階段をパタパタ音を立てながら上がって行ったね。

 息子よ。あれから少ししてだよ。お父さんの手から新聞が落ちて、ひどく気持ちの悪い恐れが来たのは。いつの間にこんな習慣を身につけてしまったのか。いつも欠点を見つけ、叱りつけるという習慣――これがお前が子どもであることへのお父さんのお返しだったとは。お前を愛していなかったというのではないんだ。お前に期待をし過ぎていたんだ。お父さんはお前をお父さんの身丈で計っていたんだ。

 それにお前にはすばらしくすてきな、正直な性格があるにもかかわらずだ。お前の小さな心には広い野原に上る夜明けくらいの大きさがあるよ。それはあの時お前が自分からとっさに走ってきてお父さんにお休みのキスをくれたときに分かったよ。息子よ。他のことはもうどうでもいいんだ。お父さんはこの暗がりの中でお前のベッドのそばに来て膝まづいているよ。本当に情けないお父さんだ!

 お前が目が覚めている時にこういったことを話しても分かってくれないだろうね。でも、明日からお父さんは本当のお父さんになるから!お父さんはお前の親友になるよ。そしてお前が苦しんでいる時はお父さんも一緒に苦しむよ。お前が笑う時はお父さんも一緒に笑うよ。いらいらした言葉が出そうになったらぐっと唇を噛んで抑えるよ。そして「この子は小さい子どもなんだ。小さい子どもらしくさせてあげよう!」と儀式のように唱えるよ。

 お父さんはお前を大人のように見ていたんだね。今こうしてお前が体を小さくしてベッドに疲れ果てて寝ているのを見ると、お前はまだ赤ん坊だったんだね。ついこの間までお前はお母さんの腕の中にいてお前の頭はお母さんの肩の上にあったんだものね。お父さんはお前に要求しすぎていたんだね。お父さんがお前に一人前の大人になることを教えようとする時に、子どもの愛らしい心を忘れないようにお父さんに思い出させておくれ。きっとだよ。約束だよ。

                        W.リビングストン・ラーンド (日本語訳福江等)

 

 

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散漫になってはいけない (6月7日)

 『わたしは、あなたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。』ヨハネ14:13

 私はこの内なるご奉仕を果たしているだろうか。取り成しの祈りには、盲目的に夢中になったりプライドに陥ったりする罠も危険もない。取り成しの祈りは隠れたご奉仕であり、それは実を結び父なる神が栄光を受けられる。私の霊的生活は退化しているのだろうか、それとも一点にすべてを集中しているのだろうか、つまり、「主の贖い」という一点に。イエス・キリストがますます私の生活のあらゆる関心事の中心になっているだろうか。もし私の人生に最も大きな影響を与える中心的一点が「主の贖い」であるなら、私の人生のすべての領域は主のために実を結ぶことになる。

 自分の力の中心的一点が何か、時間を取って確かめる必要がある。60分の内1分をそのことに集中する時間を取っているだろうか。「もしあなたがたが私にとどまるなら」とある。その一点から行動し、考え、働き続けよ。そうすれば「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」私は主にとどまっているだろうか。主にとどまるために時間を割いているだろうか。私の人生に力をもたらしてくれる最大のかなめは何だろうか。仕事だろうか、奉仕だろうか、人々のための犠牲になることだろうか、それとも神のためにご奉仕することだろうか。私の人生に最大の力を与えてくれるものは「主の贖い」であるはずだ。私たちを真に形成するものは私たちが最も多くの時間を費やすものではない。最大のかなめが最大の力を与えてくれる。私たちはあえて自らに限界を定め、関心事を集約する決意をしなければならない。

「わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」イエスにとどまる弟子こそが神のご意志にかなう者であり、その人が自由に選択しているように見えることが、実は神があらかじめ定めておられる事なのである。神秘的だと言われるか。論理的に考えて矛盾していてばかげていると思われるか。その通りである。しかし聖徒にとってはこれが栄光に満ちた真理なのである。

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神は決して見捨てない  (6月4日)

『主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』ヘブル13:5

  私たちの考え方はどの方向に向いているだろうか。神が言われることに向いているだろうか、それとも自分が恐れている事に向いているだろうか。私は神の言われることを聞いてから物を言う事を学んでいるだろうか、それとも神の言われる事と関係のないことを語ることを学習しているのだろうか。『主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』

 「私は決してあなたを離れず」ーー私のあらゆる罪、わがまま、頑なさ、不従順にもかかわらず主はこのように言ってくださる。神が私を決して見捨てないと言われるのを私は本当に聞いているだろうか。もし神がそのように言われるのを聞いたことがあるのなら、再び耳を傾けよう。

 「私はあなたを決して捨てない。」神が私を見捨てるのではないかと思うのは試練に会っている時ばかりではなく、日常の仕事である場合もある。人生の「険しい山」に登っているわけでもなく、ビジョンを受けているわけでもなく、特にすばらしいこと美しいことがあるわけでもない、来る日も来る日も同じような生活の繰り返し、そんな時に神の言われるこのみ言葉を耳にしているだろうか。

 神はなにかすごいことをされようとしている、神は徐々になにか驚くべき事のために私たちを備えておられる、そんな風に私たちは考える傾向がある。しかし私たちが恵みの中で生きていくにしたがって、神は今この時にまさに私のいるここでご自身の栄光を現わしておられるということを知るのである。「主がこう言われる」という主のみことばを心に聴いているなら、驚くべき力が与えられる。そしてなにも特別なことのない普通の日常の中で主を賛美する事を学ぶであろう。

 

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そういうことだったのか (5月22日)

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らも私たちにおるようになるためです。』ヨハネ17:21

 もしあなたが孤独の中にいるのなら、ヨハネ17章を読んでみなさい。なぜあなたが今の状態にあるかを正確に説明してくれるであろう。イエスが父なる神と一つであるようにあなたもまた父と一つになるようにとイエスは祈られた。そのイエスの祈りがかなうようにあなたは父なる神の力になろうとしているだろうか。それともあなたの人生にはそれ以外の目的があるのだろうか。イエスの弟子となった以上、あなたはかつてのように自分の好きなように生きるということはできない。

 私たちの祈りに答えることが神のご目的ではない。そうではなくて、祈りを通して私たちが神のみこころを見極めるようになることである。ヨハネ17章で啓示されていることはこの事である。神がどうしても答えなくてはならない一つの祈りがある。それは次のイエスの祈りである。「私たちが一つであるように、彼らも一つとなるように」という祈りである。イエス・キリストがこれほどまでに父なる神と深い関係にあるごとくに、私たちもイエスとそういう関係になっているだろうか。

 神は私たちの計画に関心を持っているのではない。「あなたはこの悲しみ、この失望落胆の経験を通りたいか。」というような事を神は訊かれない。神はご自身の目的を果たすために、これらのことが起こるのを許されている。私たちが経験している事柄は、私たちをもっと素敵な、もっと良い、もっと高貴な人間にするか、それとも私たちをもっと人の荒捜しをし、もっと人の欠点を見つけ出し、もっと自分のやり方に固執する人間にするかのどちらかである。日々起きてくる出来事は私たちを意地の悪い人間にするかそれとも聖なる人間にするかのどちらかである。そしてそれは私たちの神に対する関係のありかたですべてが決まる。もし、「あなたのみこころがなりますように」と祈るなら、私たちはヨハネ17章の慰めを見出す。天の父がご自身の知恵に即して働いておられることを知るという慰めである。私たちに神が何をしようとされているかが理解できるなら、私たちは意地悪になったりひねくれ者になったりはしない。イエスはご自身が父と一つであるように、まさしく私たちもまた父と全く一つになることを祈られたのである。そのような父との関係から程遠い人もいる。しかし、神は私たちが神ご自身と一つになるまでは私たちを見捨てない。なぜなら、イエスがそう祈られたから。

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