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Archive for 4月, 2010

あなたは何を求めるのか  (4月27日)

『あなたは自分のために大きなことを求めるのか。』エレミヤ45:5

あなたは自分のために大きなことを求めているのだろうか。必ずしも偉大な人になることをというのではなくとも、神からなにか大きなことをいただこうとしているのだろうか。神はあなたが神の賜物を受けるよりも、神ご自身ともっと深い関係になることを求めておられるのだ。神はあなたが神を知る事を求めておられる。大きなことは偶然に起こるものであり、それはうたかたのように出来ては消えるものである。神はなにか偶然に起こるものを私たちにお与えになるのではない。あなたが求めているものが神の賜物ではなく、神ご自身であるならば、神と正しい関係になることほどたやすい事はない。

 もしあなたが神になにかを与えられることだけを求めているならば、あなたはまだ自己放棄の入り口にも来ていない。あなたは自己流からクリスチャンになっているのだ。「私は神に聖霊を求めた。しかし私が期待していたような安息や平安を神は与えてくれなかった」と言うのだろうか。神はただちにその理由を指し示されるであろう。「あなたは主を少しも求めず、あなたは自分のためになにかを求めているに過ぎないのだ」と。イエスは言われた。「求めなさい。そうすれば与えられるであろう」と。あなたの求めている事を神に願いなさい。しかし、正しい事でなければ、それを願う事はできない。あなたが神に近づくなら、神からなにかをいただけることを求めなくなる。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」それならどうして求める必要があるのだろうか。それはあなたが神を知るためである。

 あなたは自分のために大きなことを求めているのだろうか。「ああ、主よ。私を聖霊のバプテスマに与らしめてください」と祈っているのだろうか。もしその祈りが聞かれないとすれば、それはあなたが神に対して自己放棄を十分していないからである。神に対して頑なになっていることがあるのだ。あなたは自分が神に何を求め、なぜそれを求めているか吟味しているだろうか。神は目先のことではなく、常に未来のことを考えておられる。神の関心はあなたを今祝福された幸せな人にすることではない。神は常に究極的にあなたを完成するために労しておられる。「それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」

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気ままに対する警告  (4月24日)

『悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。』ルカ10:20

 キリストの働き人にとって罠とはこの世や罪というものではなくて、霊的軽率さである。つまり、私たちの生きている宗教的時代の時流に乗って、霊的な成功を収めたいという思いである。神の承認以外決して何物をも求めてはいけない。行って「門の外で苦しみを受けなさい。」イエスは弟子たちに奉仕において成功を収める事を喜ぶのではないと言われた。にもかかわらず、それこそほとんどの者が喜ぶ一事であるように見える。私たちは商業主義的な考えを抱いている。「こんなに沢山の人が救われ、きよめられたのだから、やれやれこれで大丈夫だ」と言う。私たちの仕事は神の恵みが土台を据えられた所から始まる。私たちの仕事はたましいを救う事ではなくて、たましいをキリストの弟子とすることである。救いと聖めとは神の一方的な恵みによって成就される。神の弟子としての私たちの仕事は人々が完全に神にささげられた者となるまで、人々を訓練することである。神に完全にささげられた一人のたましいは、聖霊によって目覚めさせられただけの百人のたましいよりも神にとっては価値がある。神の働き人として、私たちは自分たちに霊的に似た人を生み出さねばならない。神が私たちを働き人として承認してくださるのはまさにその点である。神は私たちを恵みによって人生の高みに引き上げてくださる。だから私たちには他の人々をそのレベルにまで育て上げる責任がある。

 働き人が神の中でキリストと隠れたところで交わりの生活をもって生きていなければ、神の霊がその内に宿る人ではなくて、気短いさしずがましい人になる。大抵の人はさしずがましい人である。他の人々にさしずしたり、会合でさしずしたりする。イエスは決してそのように人々にさしずしない。主がご自分の弟子になるように言われた時、いつも「もし」という前置きを付けられた。決して「しなければならない」という強い主張はされなかった。弟子になるということはいつも選択が与えられているということである。

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いつか無くなる光  (4月22日)

『私たちはみな、鏡のように主の栄光を反映させながら…。』2コリント3:18

 キリストのしもべは自分でも気がつかないくらい一人ぼっちで立たなければならない。クリスチャン生活の初期においてがっかりすることがある。それはそれまであなたにとって光であったような人々が光でなくなったり、支えてくれていた人々が召されたりするから。私たちはそういったことに十分慣れて、一人で立っていることさえ分からないくらいになる必要がある。「みな私を見捨ててしまいました。…しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。」(2テモテ4:16,17)私たちはやがて無くなる光ではなく、決して無くならない光によって自分の信仰を立て上げていかねばならない。「頼りにしていた人」がいなくなると悲しい。しかし、いつかそうなることは決まっていたのだ。私たちに残されている事は、自分自身で神のみ顔を仰ぐことである。

 あなたは自分について、自分の信じていることについて、神のみ顔をしっかりと見続けなさい。あなたが神のことを語るときはいつでも、先ずその事について神のみ顔を見るようにしなさい。そうすれば神の栄光はいつもあなたにとどまる。クリスチャンの働き人とは、いつでも神のみ顔を見て、それから人々に語る人のことである。キリストに仕えることの特徴は、神の栄光が気がつかないうちに与えられていることである。「(モーセ)は自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」

 私たちは自分の疑いをひけらかしたり、神との密やかな交わりを見せたりするために召されているのではない。神の働き人の人生の秘訣は神といつも心が一致しているということである。

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ありえないことだろうか  (4月19日)

『ヨアブはアドニヤについたが、アブシャロムにはつかなかった。』Ⅰ列王記2:28

  ヨアブは大きな試練を乗り越えた。彼はダビデに対して完全に忠実であり誠実であった。彼は魅力的でかつ野心的なアブシャロムについていかなかった。しかし彼は晩年になって臆病なアドニヤについたのであった。人が会ったことのある試練には、だれもが会う可能性があるという事実に常に警戒を怠らないようにしなさい(1コリント10:3を見よ)。あなたは大きな危機を通り抜けたかもしれない。しかし小さくて取るに足りないと思えるような事に警戒しなさい。「取るに足りない隠れた部分」を計算に入れておきなさい。

 私たちは次のように言う傾向がある。「あのような最悪の危機を乗り越えたのだから、今さらこの世的なことに屈することなどありえない」と。誘惑がどこから来るか予測しないようにしなさい。思っても見ないような事が危険なのである。大きな霊的な戦いの後で、「取るに足りない隠れた部分」が物を言い始める。それは強力という訳ではないが、それでもそこにある事は事実なのである。それであなたが警戒していなければ、それはあなたをひっくり返すことができる。あなたは大きな激しい試練の中にあっても神に対して誠実であり続けた。しかし目に見えない底流に気をつけなさい。悲壮感を持って明日を見るような、病的に内省的であってはいけない。しかし警戒していなさい。あなたの記憶力を神の御前に活発にさせておきなさい。あなたの強みを警戒していなければ、それは非常な弱さになる。なぜなら「取るに足りない隠れた部分」が忍びよるのはあなたの強みにあるのだから。聖書の中に出てくる偉大な人々が失敗したのは彼らの強みであって、決して弱点で失敗したのではなかった。

 「神の力によって守られること」――これだけが唯一の安心である。

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山から降りて来られるか  (4月16日)

『あなたがたに光がある間に、…光を信じなさい。』ヨハネ12:36

  私たちは皆、これ以上すばらしい時はないと思えるような瞬間がある。そんな時私たちは思う。「どんな事でもできる感じだ。いつもこんな気分であったらいいのに!」と。しかし私たちはそのようには造られていない。そのような瞬間というものは、私たちが真理を洞察する瞬間であって、私たちの気分が乗らない時に目標としておくべきものである。私たちの多くはそういった気分の高揚する時がないと、日常の世界に堪えられない。気分が高揚した時に啓示されたレベルに平凡な日常を持ち上げるのだ。

 高揚した時にあなたを揺り動かした感情を蒸発させてしまってはいけない。暖炉に足を掛けて、「なんというすばらしい気分だろう!」と言うようであってはいけない。すぐに実行に移しなさい。何かをしなさい。たとえ実行に移したくなくとも。もし祈祷会で神があなたに何かを示されたなら、「それをいつかしょう。」と言ってはいけない。すぐにするのだ!自分の首筋をつかんで、あなたの生まれつきの怠け癖を払い落しなさい。気分の高揚を渇望するのは常に怠け癖の現れである。私たちは山頂での経験を持つ事のすばらしさを語る。しかし、私たちは山頂で見たことを灰色の日常の中で実践することを学習しなければならない。

 一度くらい挫折したらかといって内に閉じこもってはいけない。再び挑戦するのだ。もう後ろに戻れないようにあなたの後ろの橋を燃やすのだ。そしてあなた自身の行為をもって神に献身するのだ。あなたの決断を変えてはいけない。高揚していた時に与えられた光の中で決断をするようにしなさい。

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重荷をどうするか   (4月13日)

『あなたの重荷を主にゆだねよ。』詩篇55:22

  私たちは正しい重荷の担い方と間違った重荷の担い方との区別をしなければならない。私たちは罪や疑念の重荷を決して担ってはいけない。神から負わされた重荷というものがある。それを神は下ろしてはくれない。私たちがその重荷を神にゆだねることを神は期待しておられる。「神があなたに与えたものを神にもどしなさい」(英改定訳注)。もし私たちが神のためにご奉仕を企てながらも、神との親密さを失えば、責任意識で押しつぶされそうになるであろう。しかし神が私たちに与えられた重荷を神に戻すならば、神は責任意識を取り去り、神がおられるという意識をもたらしてくださる。

 多くの働き人がすぐれた勇気とすばらしい情熱をもって主のご奉仕に出かけて行った。しかしイエス・キリストとの親しい交わりを持たずに行ったためにすぐに押しつぶされた。重荷は疲労感を生み出すばかりで、彼らは重荷をどう対処したらよいか知らないのである。人々は「初めはあんなに張り切っていたのに、なんというみじめな最後であることか」と言う。

 「あなたの重荷を主にゆだねよ」――あなたはすべてを自分で担おうとしてきたのだ。重荷の片端を意図的に神の肩に載せなさい。「主権はその肩にあり」である。「神があなたに与えたものを」神にゆだねよ。放り出すというのではなく、その重荷を神にまかせ、あなた自身をもその重荷と一緒に神にまかせるのだ。そうすれば、重荷は神が共におられるという意識によって軽くなる。あなた自身を重荷から決して分離してはいけない。

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心を占めるもの  (4月12日)

『死はもはやキリストを支配しない…キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』ローマ6:9-11

 神と共なる永遠のいのち・永遠のいのちとはイエス・キリストが人間として見せてくださったいのちのことである。それは私たちが神によって新しく生まれ変わるときに、この生身に現れるそのいのちである。キリストのいのちに似たいのちというのではなく、まさしく同じいのちである。永遠のいのちとは神からの賜物ではなく、永遠のいのちとは神という賜物のことである。ひとたび私たちが罪について心に決断を下すならば、イエスの中に現れたエネルギーと力は神の完全に一方的な恵みによって私たちの中に現れるであろう。

 『あなたがたは聖霊の力を受けるであろう』――聖霊からの贈り物としての力ではない。その力そのものが聖霊なのである。それは何か聖霊が分け与えるものではない。ひとたび私たちがイエスと結ばれるように決断をするならば、イエスの中にあったいのちが十字架という方法によって私たちのものになったのである。神と正しい関係になることが難しいとすれば、私たちが罪について断固とした決断を下さないからである。私たちが決断をするやいなや、神の満ち溢れるいのちが心に入る。イエスは「あなたがたが神の満ちみちた姿に満たされるように」と、いのちを無限に与えるために来てくださった。永遠のいのちとは「時」の長さとはなんの関係もない。それはイエスが地上にあって生きられたいのちのことである。「いのち」の唯一の源は主イエス・キリストである。

 まるで力のない聖徒であっても、もし進んで「手放」しさえすれば、神の御子の聖なる力を経験することができる。自力に頼ろうとするとイエスのいのちがぼやけてくる。私たちは絶えず手放し続けねばならない。そうすれば、ゆっくりと着実に神の満ちみちたいのちが私たちのあらゆる領域に充満してくる。そして人々は私たちがイエスと一緒にいたことに気付くであろう。

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燃える心   (3月22日)

『私たちの心はうちに燃えていたではない。』ルカ24:32

 われわれは燃える心の秘訣を学ばねばならない。イエスが突然現れると、火が燃える。そしてわれわれはすばらしいビジョンを持つ。その後われわれはどんなことにも耐えて燃え続ける心を保つ秘訣を学ばねばならない。イエスにとどまる秘訣を学ばねば、平凡な日々の務めや、人々との単調で退屈で平凡な日々が燃える心を冷ましてしまう。

 クリスチャンとしての悩みのほとんどは罪から来るのではなく、われわれの性質の法則を知らないことから来る。例えば、われわれが感情をそのおもむくままにしてよいかどうかを見極める唯一の方法は、その感情を出した結果がどうなるかを知ることである。その考えを推し進めるならば、もし結果が何か神がとがめられるようなものであるなら、その感情をそれ以上おもむくままににしてはいけない。しかし、もしある感情が神の御霊によって燃やされたものであって、しかもその感情を自分の生活の中で正しく生かさないとすれば、それは低いレベルで反応する。人がセンチメンタルになるのはそのためである。感情が正しくそのレベルで用いられなければ、感情が崇高であればあるだけ、品格の低下はそれだけひどくなる。もし神の御霊があなたを揺り動かすなら、結果を恐れずに、できるだけ多くの事を後戻りできないようにせよ。われわれは変貌の山に留まる事はできない。しかしわれわれはそこで受けた光に従わねばならない。それを実践しなければならない。神がビジョンを与えてくださる時は、どんな犠牲を払ってでもそのビジョンにそって事を運びなさい。

     「われわれは心の内にある火を

      望むままに燃やす事はできない。

      御霊は吹く時もあれば静まる時もある。

      われわれのたましいは神秘の中に住む。

      しかし深い洞察の中で持った使命は

      悲しみの時を経て成就される。」

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