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Archive for 3月, 2010

心のきよさ  (3月26日)

『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。』マタイ5:8

  きよさとは汚れなさのことではない。それよりもはるかに多くの事を意味している。きよさとは神と霊的に繋がっている結果現れるもののことである。われわれはきよさにおいて成長しなければならない。確かに神と正しい関係で生きており、心のきよさにも陰りがないかもしれない。しかし時々外の輝きが曇ることがある。そうならないように神がわれわれを守ってくれるとは限らない。なぜなら、外の輝きの曇りを通してわれわれは心のきよさによって神を見続ける必要性に気がつくから。もし神と共にあるわれわれのいのちの霊的輝きがいささかでも陰ってきているとしたら、すべてを棄ておいて軌道修正しなければならない。神を見るのは心によることを覚えていてほしい。心のきよい者は神を見るということを。

 神はご自身の至高の恵みによってわれわれをきよくしてくださる。しかしわれわれが気をつけねばならないことがある。それは他の人々や他の見解に接触するこの生身のいのちである。よごれやすいのはそういったことである。内なる聖所が神と正しい関係にあるだけでなく、外なる庭もまた神がご自身の恵みによって与えてくださるきよさと完全に一致するようにしなければならない。外なる庭が汚れるや否や霊的理解が曇って来る。もしわれわれが主イエス・キリストとの個人的結びつきを保ちたいなら、われわれが潔(いさぎよ)しとしない行いと思いに気をつけよ。何か正当なことであってもそれに触れることを潔しとしないことには気をつけよ。

 他の人との関係の中で心のきよさをよごさない実際的な方法は、自分自身に次のように言うことである。「あの人は、キリスト・イエスにあって全き人である!あの友人、あの親類はキリスト・イエスにあって全き人である」と。

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従うと言う事  (3月14日)

『あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって…』ローマ6:16

 

 自分を支配する力を吟味する時に最初にすべきことは、そのように支配されているのは自分の責任であるというありがたくない事実を理解することである。もし私が自分の奴隷であるとすれば、私は自分を責めるべきである。なぜなら過去のある時点で私が自分に自分を差し出したからである。同じようにもし私が神に従う者であるとすれば、私がそうするのは、私が神に自らを差し出したからである。

 子ども時代にわがままに自分を差し出したとすれば、そのわがままがこの世であなたを最も強く束縛する暴君であることを知るであろう。自らを何かに差し出すことによって形作られた性格の鎖を打ち破る力は人間のたましいの中には存在しない。欲望という性質を持つ何かにひとたび自分を差し出すなら(肉の欲望であろうが、心の欲望であろうが、「私は今すぐにそれを手に入れたい」というのが欲望であることを思い出しほしい)――ひとたび自分を差し出したなら、差し出した事をあなたが嫌悪しているとしても、あなたはそのことの奴隷なのである。人間の力の中ではその事から解放されることができない。ただ「贖い」によるのみである。あなたを支配している力を打ち破ることのできる唯一のお方にひれふして、あなたは自分を差し出さねばならない。つまり、主イエス・キリストにである。――「主は私に油をそそがれた…すべての捕らわれ人に解放を告げるために。」

 あなたはこのことを途方もなく小さい事の中で知るであろう。――「私はいつでも自分がしょうと思えばその習慣を捨てることができる」と考える。しかし実際はできないのである。その習慣があなたを完全に支配していることが分かるであろう。なぜならあなたが自発的に自分を差し出したから。「主はあらゆる足枷を壊してくださる」と歌い、同時に自分に明らかに縛られて生きる事は簡単である。イエスに自分を差し出すことによって、いかなる人も自分を縛っているあらゆるものから解放されることができるのである。

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寂しさについて

人生の倦怠と荒涼に対しては、他人に奉仕するということ以上に、まさる手はありません。これこそ一般にこの世における真の幸福であり、いつでもたやすく得られる幸福です。     (「希望と幸福:ヒルティの言葉」より)

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苦しみと悩みについて

すべての正しい人間の一生には、苦難の一章がつきものです。さもなければ、まともなものになれません。

私はそれどころか、「苦しみのない人生など、あまりにも変化にとぼしいであろう」という命題さえ、あえてかかげる者です。なんのくもりもない完璧な幸福には、どんな人も堪え得られるものではありません。   (「希望と幸福:ヒルティの言葉」より)

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苦しみと悩みについて

ところでわれわれが、あらゆる困難や悩みを思いすごして、とりわけ眠られぬ夜などに憂慮の思いがひしひしとおそってくる場合には、「断固前進!」という結論以外に手はありません。これのみが、かかる事態における唯一の合理的論理というものです。 (「希望と幸福:ヒルティの言葉」より)

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失敗について

(この文はArchibald D. Hart, Counseling the Depressed, 1987の本からの抜粋です。)

What may appear to be failure now, may turn out to be a blessing later; in God’s economy, there is really no such thing as failure — only forced growth.

今は失敗のように思われることが、後にはそれが祝福にかわるかもしれないのだ。神の世界においては、実は失敗というものは存在しないのだ。しいられた成長があるのみだ。

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最上のわざ

(この詩は上智大学の第二代学長、及び聖イグナチオ教会の主任司祭をされたヘルマン・ホイベルス神父が日本に紹介された詩です。スイスの友人から送られてきたと言われていますが、作者は不明です。)

この世で最上のわざは何

美しい心で年をとり

働きたいけれども休み

失望しそうなときに希望し

従順に平静に、おのれの十字架を担う

若者が元気いっぱいで、神の道を歩むのを見ても妬まず

人々のために働くよりも、謙虚に人の世話になり

弱って、もはや人のために役に立たずとも

親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物

古びた心に、これで最後の磨きをかける

まことのふるさとへ行くために

おのれをこの世につなぐ鎖を

少しずつはなしていくのは、真にえらい仕事

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる

それは祈りだ

手は何もできないけれども

最後まで合掌できる

愛するすべての人のうえに

神の恵みを求めるために

すべてをなし終えたら

臨終の床に神の声をきくだろう

「来たれ、わが友よ。我、汝を見捨てじ」と。

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神の働き人の中心的情熱 (3月17日)

 

『そういうわけで、…私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。』2コリント5:9

 

 「そういうわけで…私たちの念願とするところは…」最も大切な願いを常に最前線に保つという事は骨の折れる仕事である。それは来る年も来る年も自らを高い理想に保つという意味である。たましいを勝ち取るとか、教会を立て上げるとか、リバイバルを起こすとかということではない。ただ「主に喜ばれること」を渇望するということである。失敗に導くものは霊的経験の欠如ではなくて、理想を正しく保つために骨をおる努力の欠如である。少なくとも週に一回は神の御前に吟味して、自らの生活が神の望まれる水準にあるかどうかを計ってみなさい。パウロは自分の「師」からの承認の表情を得さえすれば、聴衆の承認は気にしない音楽家のようである。

 「主に喜ばれること」というこの中心的な渇望からほんの僅かでもそれている野心があるならば、われわれは見捨てられた者になってしまう可能性がある。野心がどこに導くかを見極めることを学びなさい。そうすればなぜ主イエス・キリストを見つめて生きることがこれほどまでに必要かが分かるであろう。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(1コリント9:27)とパウロは言っている。

 私はすべてのことをこの中心的な渇望に結びつける事を学ばねばならない。しかもそれを間断なく維持することを。公衆において私が神に対してどれほどの価値があるかは、プライベートにおいて私が神に対してどのような者かで決まる。私の中心的な願望は神を喜ばせ、神に喜ばれることであろうか。あるいはいかに高尚なものであろうと何かそれ以下のものであろうか。

 

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放棄するとは 

『私はキリストとともに十字架につけられました。』ガラテヤ2:20

 

 罪だけでなく、物事の見方すべてをも喜んで手放すようになるまでは、イエス・キリストと結ばれていることにはならない。神の御霊によって生まれ変わるということは、つかむ前に手放すという意味である。そして初期の段階ではそれはすべての見せかけを放棄することである。われわれの主がわれわれから求めておられる事は、われわれの誠実さや正直さや努力ではなく、正真正銘の罪である。主がわれわれから受け取ることができるものはそれだけである。そしてわれわれの罪の代わりに主は何を与えてくださるか。正真正銘の義である。しかし、われわれは自分が何か価値があるかのような見せかけのすべてを、かつ神に目を止めていただく価値があるという主張のすべてを放棄しなければならない。

 続いて神の御霊はその後何を放棄すべきかを示してくださる。自分には権利があると言う主張をすべての局面において放棄しなければならなくなるだろう。私は自分が所有するもののすべて、私が愛着をもっているものすべて、すべてのことに関する自らの権利を放棄して、イエス・キリストの死と結ばれる用意があるだろうか。

 われわれが放棄する前に常にするどい痛みを伴う幻滅を経験する。主がご覧になるごとくに人が自分を見るようになると、その人に衝撃を与えるものはいまわしい肉の罪ではなく、イエス・キリストに逆らう自らの心のプライドという恐ろしい性質である。主の光の中で自らを見ると、恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じるようになる。

 放棄という問題にぶつかっているのなら、危機的状況の中ですべてを放棄せよ。そうすれば、神があなたに求めておられるに相応しい者へとあなたを変えてくださる。

 

 

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