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Archive for 2月, 2010

祝福の力

出エジプト記1:1-14 (新改訳)

 さて、ヤコブと一緒に、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンとベニヤミン、ダンとナフタリ、ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いという時に、敵側についてわれわれと戦い、この地から出ていくといけないから。」そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

 一言お祈りいたします。

 恵みとご自愛に富みたもう天の父なる神様。新しい年をこうして与えてくださり、「この年も我に来よ。」と招いてくださって、あなたについて歩んでいける幸いを心より感謝いたします。私たちが歩む前にすでにあなたは私たちの先を歩んでくださり、そして私たちの必要をことごとくご存じの上で道を選びとり、私たちを一歩ずつ導いて下さいますから感謝いたします。この朝も兄弟姉妹たちをあなたが集めてくださり、神の愛、イエス・キリストの贖いの恵み、聖霊の交わりによって礼拝を通して、新しく確認できますから感謝いたします。この年もどうか新たな飛躍の年となりますように。どうぞあなたのみ霊の導きに敏感に従って行くことが出来ますように。どうか私たちの心に聖霊さまが数々のことを教えてくださって、それらを漏らすことなく受け止め、実行していくことが出来ますように導いてください。どうかあなたのみ言葉が私たちの魂に錨のように打ち込まれますように。楔のようにどうぞ私たちの魂に打ち込んでくださって、どうか私たちがあなたのみ言葉によって押し出されるように生きていくことが出来るように導いてください。この世の声、また様々な人々の声によって動かされるのではなくて、どうか天来のみ声によって動かされる者とならしめてくださいますようにお願いいたします。そしてまた神様、どうぞ一人ひとりに天来の知恵を与え、アイデアを与え、インスピレーションを与え、一人ひとりの生命が、才能が、与えられている賜物が十分生かされることが出来ますように。私たちのことをご存じであるあなたが働きかけ、導いてくださいますことを切にお願いいたします。またあなたの導きを知ることが出来る純粋な敏感な心をもつことが出来ますようにしてくだい。どうぞ私たちがあなたのみ声に対して、いつも聞き耳を立てていくことが出来ますように備えさせてください。また主よ、どうぞこの教会もこの一年を通して新たな前進を見ることが出来るように導いてください。多くの恵みと祝福と慈しみをあなたが備えていてくださることを信じて感謝いたします。お一人お一人の歩みをどうぞあなたが確かなものとしてくださいますようにお願いをいたします。そしてまた私たちの信仰を引きあげてあなたに更に強く信頼していくものとさせてくださいますようにお願いいたします。今朝与えられましたあなたのみ言葉をどうか聖霊さまが私たち一人ひとりに当てはめて、生命の言葉として、生命の真清水としてお与えくださいますようにお願いいたします。どうかこのしもべを聖めてあなたのご奉仕に用いてください。

感謝をし、主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。 アーメン。

 この新しい年に今お祈りをさせていただきましたように、お一人お一人にとってまた教会にとって、主の恵み深い導きがあることを深く願っております。何があろうと神様のご愛と恵みは決して変わることがないと、その事を私たちが深く信じていくことが出来る、そのような信仰の一年でありますように願っております。この出エジプト記という書物はご存じのとおり、モーセという偉大な指導者を通してイスラエルの民がエジプトから救い出されてあの紅海を渡って、そしてシナイ山に着き、そこで神様からいわゆるモーセの十戒と言われるものを受けて、荒野を四十年もの間旅しながら約束の地カナンに向かって行くという、壮大なドラマが展開されている書であります。出エジプト記はイスラエルの人々にかぎらず、私たち一人ひとりにとって信仰を理解する上で、かけがえのない書物であります。出エジプト記を学んでいくことを通して私たちの信仰生活が強められ深められていくことを心から願っております。 Continue Reading »

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Faithful Friends (私訳)

God knew we needed

something more

than budding earth and sky.

And so He sent us friends to love

to lift our spirits high.

God chose to teach

love’s wondrous art

of the comfort that never ends,

by giving to the thankful heart

the dear, good gift

of friends.

(author unkown)

親 友

神様は私たちが花や空だけでなく、

それ以上の何かを必要としていることを

ご存じだった。

それで神様は友を送ってくださった。

お互いに愛しあい、気持ちを引き上げるために。

神様は愛の驚くべきわざを教えようとされた。

それは決して無くなることのない慰めというわざ。

感謝の心を持つ人に

友という大切なすばらしい賜物を

くださることによって。

(作者不明)

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ヒルティの言葉

マタイ福音書8章22節(「死人を葬ることは、死人にまかせておくがよい」というイエスのみことばによせて)

それ自体良いいくたのものが過ぎ去っていく。それは、過ぎ去るにまかせて、しいて取り戻そうと思ってはいけない。人生はたえまない前進でなければならぬ。すでにあったことの単なるくりかえしであってはならぬ。最後の瞬間まで、毎日毎日が一つの創作であるべきだ。    (「希望と幸福:ヒルティの言葉」秋山英夫訳編、社会思想社)

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言葉の力

ヤコブの手紙3:1-12 (新改訳)

 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

 一言お祈りいたしましょう

 恵みと憐れみにとみたもう天の父なる神様。あなたのなさる事は時にかなって麗しいと御言葉にある通り、私たちの生活もまた人生も、あなたが豊かな憐れみの御目をもってみそなわして下さり、私たち一人ひとりをあなたの御手の中で導いてくださいますから、心から感謝いたします。過去一週間、雨の日が多くありましたけれども、そしてそれが地を潤し、また豊かな収穫をもたらしてくれる事でありますが、今朝はこうして澄み渡った秋晴れの朝を与えてくださいまして心から感謝いたします。今日も兄弟姉妹たちがこうして遠くから近くから三々五々あなたの御前に集ってまいりました。あなたの御許に私たちを招いてくださり、いつも「我に来よ」と呼びかけてくださいますことを感謝いたします。

 ともすれば疲れやすく私たちの心もしぼんでしまい易いものでありますが、主は疲れた者を起こし、しぼんだ心に力を与えて励ましてくださる御方であることを感謝いたします。そうしてこの朝、私たちをもう一度あなたの生命の糧に至らせようとしてここに招いてくださったこと、今あなたが御言葉を開いて私たちの歩むべき道を指し示し、光を与えてくださる事をありがとうございます。どうか主よ、このひとときをあなたが聖別し、聖霊さまが豊かに働いてくださる時としてください。そして一人ひとりが今日でなければならない必要な新たな生命の御言葉を得ることができますように、あなたの御言葉を開いてください。私たちの心を御前に開け放し、あなたを待ち望みます。そしてどうか一人ひとりをあなたが導き引き上げまた満たしそして強め、あなたの子としてもう一度立ち上がる事が出来ますように導いてください。

感謝をし、主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

 私たちの人生をそれぞれ振り返ってみますと、「あの時、あの人が、あの一言を言ってくれたが故に、今の自分がある」、というようなそういう「あの一言」という言葉に私たちの人生のどこかで出会ったのではないかと思います。私自身にもそういう「あの一言」というのがあります。それは二十歳の時でありますが、アメリカに留学した年の事であります。アイダホ州にある田舎の小さなクリスチャンの大学に留学しました。 Continue Reading »

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なぜ東方の博士たちが?

マタイの福音書2:1-12 (新改訳)

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 一言お祈りいたしましょう

 恵みとご愛に富みたもう天の父なる神様、

あなたの計り知れないご計画によって、あなたの創造されたこの世界にあなたはみ子をお遣わしになり、この世界にあなたの救いをもたらしてくださいました。今日、私たちはみ子主イエス・キリストがお生まれになったことを覚えながらここであなたのみ前に礼拝を捧げています。イエス様があのベツレヘムの家畜小屋で、おそらくは粗末な場所であったと思われますが、ある人々は洞窟であったとも言われておりますけれども、そのような中で人類の救い主がお生まれなられました。そして、そこからイエス様はやがてはあなたの福音を述べ伝え、そして、その身をもってあなたの救いを成就し、十字架の苦しみを受けられ復活し、またあなたに従って行く人々の上に聖霊を注いでくださいました。今から約二千年前の出来事でありますが、その事が私たちのこの世界のあり方を根底から変えてくださいました。いま私たちは遠くイスラエルから離れているこの日本で、こうしてあなたを信じる信仰をお与えくださっているという事、そして、またイエス・キリストを救い主としてお迎えし、日々生ける主と共に生かされていること、また、あなたのみ言葉が私たちの生命の糧であること、そのような者とされていることを心より感謝いたします。

闇の世界に光を照らしてくださった、とみ言葉にありましたけれども、本当にこの世界はさまざまな闇が支配しております。そんな中にイエス・キリストが神様の愛を届けてくださり、一人ひとりの心に光を灯してくださる事を心より感謝いたします。今も私たちを取り囲むこの世界はいたる所に闇を見ています。一人ぼっちで孤独の中にいる人たち、またいろんな事で行き詰って出口を見いだせずにいる人たち、愛する者を失くして寂しさの中に置かれている人たち、いろんな悩みの中でもがき苦しんでいる一人ひとり、そしてまた肉体的な身体的な重荷を背負って歩んでいる一人ひとり、そのような一人ひとりをあなたは御目にとめて、イエス・キリストを通してこのクリスマスの時期に、あなたのご愛を届けようとしてらっしゃるということを感謝いたします。

 ここに教会が建てられ、主イエス・キリストのその神の贈り物を地域の方々に届けようとして、私たちが立てられていることを心から感謝いたします。どうか、主よこのクリスマスの時期に私たちの周りの孤独な人たちや、また寂しさの中にある人たちに、少しでも神様のご愛を届けることが出来ますように、私たちを聖めて用いてください。そしてイエス様が来られたことを共に喜ぶ事が出来ますように導いてください。今日あなたのみ言葉を通して私たち一人ひとりに主のみ言葉を与えてください。

 待ち望みつつ主イエス・キリストのみ名によって感謝してお祈りします。 アーメン。

 何年か前に高知県民文化ホールで開催されました高知市民クリスマスに参加いたしました。北海道の家庭学校という施設の校長先生をされていた谷昌恒先生という方が講師として講演をされました。大変素晴らしい講演の内容で、その後谷先生の書かれた本を次々と読むようになっていきました。大変多くの事を教えられてきました。ただ一つその講演の中で気にかかることを谷先生がおっしゃいました。それは何かと言いますと、「クリスマスの出来事であるイエス様の誕生の事が福音書の中にいくつも書かれているけれども、その中に博士たちが出て来るのはどうもクリスマスにふさわしくないのではないか」というものです。「イエス・キリストの誕生はあの名もない羊飼いたちとか、粗末な家畜小屋とか、本当に人間の一番低い所にいらっしゃった、そういうのが本当のクリスマスだと思うんだけど、博士たちというのは立派な服を着て、立派なラクダに乗って黄金・乳香・没薬をもって来るような人たちです。どうも立派すぎてイエス様の誕生には似つかわしくないのではないか」と思っているとおっしゃいました。それを聞いて私はその時から博士たちの事が気になっていたのであります。なぜイエス様の誕生にまつわる記事の中に東方の博士たちの事が書かれたのだろうか、そこに何の意味があるのだろうか、と考えるようになっていました。 Continue Reading »

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いのちの冠

ヤコブ書1:12-18 (新改訳)

 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに。真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 一言お祈りいたします。

 すべての恵みの源であられる天の父なる神様、こうしてよく晴れ渡った秋晴れのもと、み堂に集まることのできる恵みに感謝しいたします。季節から季節へとその時そのときに、あなたは大きなご計画の中で、地球上に住むすべての生き物に恵みと憐れみを注ぎ、生かし、喜びを与え、希望を与え、またあなたの光の温かさを受けて生きることの出来る営みを与えてくださっていることを感謝いたします。私たちもまたこうして地球上のこの所で、あなたが備えてくださったあなたの宮で、一人ひとりが招かれて恵みのみ座に近づけられていることを心から感謝いたします。あなたはいつもどんな時にもあの放蕩息子の父親のように、私たちがあなたのみ許に帰って来ることを待ち望み、今か今かと待っていてくださる天の父なる神であられることを感謝いたします。私たちが身も心も疲れはてボロボロになって帰ってきても、あなたは両手で私たちを抱きかかえ喜んでくださる主であることを心より感謝いたします。

 今日もあなたは「我に来よ。」と招いてくださったそのご愛に私たちもまた勇気を与えられて、あなたのみ前にこうして侍っております。どうか大胆に恵みのみ座に近づく者としてください。あなたが今日、天からマナを降らせ一人ひとりの魂に生命を与えようとしておられるそのみ言葉を、どうか受け止めることが出来ますように。理解することが出来るように、聖霊さま、どうぞ豊かにお働きください。そして私たちの心も体も精神も強めてくださいますように。新しい生命と希望と光を見いだすことが出来ますように。また道筋を見いだして行くことが出来ますように。主よ、どうかみ業をなさってください。今日共に礼拝に与ることの出来なかった兄弟姉妹たちの上にも、そしてまたCDを聞いておられる方々や共にこうして礼拝に与っておられる方々の上にも、どうか等しく主の恵みがありますように。この愚かなしもべを聖めてみ言葉の奉仕にお用いください。

感謝して、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。 アーメン。

 何年か前に礼拝が終わって交わりの時に、うちの息子がいきなり質問があると言ってきました。主の祈りの中の「我らを試みに会わせず、悪より救いいだしたまえ」という一節の「我らを試みに会わせず」という祈りはあれでいいの?と訊くであります。“聖書では、神様は私たちをいろんな試練や試みに会わせて、私たちを訓練し成長させてくれていると教えていると思うんだけど、どうして試みにあわせないようにって祈るの?”と、こう言うのです。大体の質問には答えられる自信があったのですが、これは意外と難問でして、「あれっ、そう言えばこれは難しい質問だな。」と内心思いました。父親であり牧師でもある訳ですから、「ここできちっと答えないと父親としての株がだいぶ下がるな」と思いまして、頑張ったのであります。 Continue Reading »

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