The Website of Hitoshi "Paul" FukuePosts RSS Comments RSS

Archive for 9月, 2009

汝の敵を愛せよ

ルカによる福音書 6章27~38節(口語訳)

 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。

 

 ひとことお祈りいたしましょう。私たちの魂の羊飼いなる天の父なる神様。この新しい聖日の朝、私たちに呼掛け、遠くから近くから貴方の御前にこうして導いて下さった事を心から感謝いたします。貴方はいつも私たちに呼びかけてくださる御方であります。大胆に恵みの御座に近づきなさいと招いてくださる御方であります。誰でも重荷を負っている者は私のところに来なさいと招いてくださる主であります。一人一人それぞれの重荷があり、悩みがあり、苦しみがあります。そしてまた一人一人に勝利もあり、喜びもあります。貴方の御前に心を開き、罪を悔い改め、また感謝をし、貴方との交わりを今朝、得ることが出来ますことを感謝いたします。

神は光であって、神の内には暗きものは何もないとあります。そのような貴方に触れて私たちの心の、そして生活の暗闇を、貴方の光で満たしてくださいますように。そして私たちが暗闇ではなく、光の中を歩む光の子どもとしてくださいますように、どうか私たちの愚かさや足りなさや欠けを、そして罪を、すべて貴方の十字架の贖いをもって、お許しくださいますように。貴方に許された者、貴方が愛して下さる者、貴方が御目にとめて下さる者として、今朝もう一度立ち上がり貴方の内なる力によって生きる希望を、命を与えられる事を感謝いたします。今朝も貴方の御言葉を開いてください。そして光を放ってください。私たち一人一人のために、そして私たちが貴方を愛し、さらに深く貴方を愛していくことが出来ますように、思い煩いの多い私たちでありますが、どうかいつも心を貴方に向けて、私たちが生かされている意味をしっかりととらえる事ができますように導いて下さい。

 どうか愚かなしもべを今朝のご奉仕のために清めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 「汝の敵を愛せよ」、とても難しいテーマを今朝与えられております。この日曜日の礼拝ではルカによる福音書を私どもは見ていますが、このルカによる福音書の六章の二十節から、その章の最後までのところにイエス様が語られた説教が記されております。

 これはイエス・キリストがその弟子となっている人たちに対して、またこれからキリストの弟子になろうとしている人たちに対して語られた説教であると考えていいと思います。キリストの弟子になるということはどういう事なのだろうか、クリスチャンとはどういう人たちなのだろうか、そういった事がはっきりと示されている箇所であります。 Continue Reading »

One response so far

聖徒のしるし

『ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。』第一ペテロ4:19

  苦しむことを選ぶというのはどこかが間違っている。たとえ苦しみがあっても神のみこころを選ぶというのとは全く別である。健全な聖徒は決して苦しみを選ばない。彼はイエスがそうであったように、苦しかろうがなかろうが神のみこころを選ぶ。聖徒は他の聖徒が受けている苦しみの訓練に干渉しない。

 イエスの心を満足させる聖徒とは、他の聖徒たちが神にあって強く成熟した者となることを助ける人である。われわれに益となることをする人々とは、われわれに同情する人のことでは決してない。(われわれに同情する人々は)われわれが強く成熟することを妨げる。なぜなら、同情は人を無気力にするからである。「救い主」に最も近くにある聖徒以外は聖徒のことを理解しない。もしわれわれが聖徒の同情を受け入れたとしたら、反射的に起きる感情は、「やれやれ、神様は私を厳しく取り扱っておられるんだ」というものです。イエスが自己憐憫は悪魔から出ていると言われるのはこのためである〈マタイ16:23〉。神の名を汚さないようにせよ。神は決して反論されないし、ご自分の正しさを擁護しないので、神のご性質に泥を塗るのはたやすいことである。イエスが地上における生涯で同情を必要としていたというような考えには気をつけなさい。イエスは人からの同情を拒んだ。なぜなら、イエスが何を目標としているかを理解する人はこの地上に誰もいないことを知りすぎていたからである。イエスは彼の「父」からのみ、そして天のみ使いからの同情だけを受けられた(ルカ15:10を参照)。

 神がどれほど多くの聖徒を無駄にしているか信じられない、とこの世の判断基準で言われることに注意せよ。神は聖徒を最も役に立たない所に置かれる。われわれは言う。「神が私をここに置かれたのは、私がとても役に立つからだ」と。しかしイエスは最大限に役に立つという視点でご自分の生涯を評価されたことは一度もなかった。神は聖徒が神に栄光を帰す所へ置かれる。そして、われわれはそれがどこか決める立場には全くない。

2 responses so far

祈りの選択と祈りの葛藤

『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、…隠れた所におられる父に祈りなさい。』マタイ6:6

   イエスは隠れた所におられる父を夢想しなさいとは言われなかった。隠れた所におられる父に祈りなさい、と言われた。祈りは意志を使った努力である。奥まった部屋に入り戸を閉めてから、その後で一番難しいことは祈ることである。われわれは思いを正常な状態にできない。最初にぶつかるのはちじに乱れる思いである。一人で祈る時の最大の戦いは取りとめのない思いを克服することである。われわれは思いを訓練し、意図的な祈りに集中しなければならない。

 われわれは祈りのために奥まった部屋を必要とする。そしてそこに入ったらやっかいなハエが集まり始める。これはきっぱりと追い払ってしまわねばならない。「戸を閉めなさい。」隠れた沈黙とは様々な感情に対して意図的に戸を閉めて神を思うことである。神は隠れた所におられる。そして神はわれわれを隠れた所から見られる。神はわれわれを他の人が見るようには見られない。われわれが自分を見るようにも見られない。われわれが隠れた所に住まうなら、神を疑うことは不可能になる。神が他のなによりも確かなお方となる。イエスは、あなたがたの父は隠れた所におられると言われる。隠れた所に入りなさい。そうすれば、あなたはそこでいつも神を見出すであろう。すべてのことについて神と相談する習慣を身につけなさい。朝起きて先ずはじめに戸を大きく開いて神を歓迎することを学ばなければ、一日中まちがった位置で働くことになる。しかし、戸を大きく開き、隠れた所におられる父に祈るなら、生活のすべてに神の臨在の印が押されるであろう。

 

 

 

One response so far

キリストに捕えられているか

『だがしかし…といって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。』ルカ20:10

  つまりはイエス・キリストが言わんとすることは次のことである。あなたの奉仕が成功したからと言って喜んではならない。そうではなくて、あなたが「私」に正しく結びついていることを喜びなさい、と。クリスチャンの働きにおける罠とは、奉仕において成功することを喜ぶこと、神に用いられたからといって喜びことである。あなたがイエス・キリストに正しく結びついているなら、神があなたを通してなさることは測り知れない。主と常に正しい関係にありなさい。そうすれば、あなたがどのような状況の中にいようとも、またあなたが日々誰に会おうとも、主はあなたを通して生ける水の川を注ぎ出しておられる、そして、そのことをあなたに知らせないのは神のあわれみによる。救いと聖化によってあなたがひと度、神と正しく結ばれるなら、あなたがどこにいようとも、神があなたをそこに置かれたことを知りなさい。そして、神が光の中におられるようにあなたが光の中にいるなら、あなたを取り囲む状況に対してあなたがもたらす反応を通して、あなたは神のご目的を成就しているということを知りなさい。

 今日の傾向は奉仕を強調することである。用いられることを魅力の理由にする人々に気をつけなさい。もし用いられることが基準であるなら、イエス・キリストはあらゆる人の中で最大の失敗者である。聖徒の関心は神ご自身であって、どれくらい用いられているかではない。神がわれわれを通してなさる働きが重要なのであって、われわれが神のためにする働きが重要なのではない。われわれの主が一人の人の人生において心にとめられることは、父なる御神とどれくらい結ばれているかということである。イエスは多くの子たちを栄光へと導いておられる。

 

 

No responses yet

心の広がり

『生ける水の川』ヨハネ7:38

  川はその水源が何も知らない所にまで流れて行く。もしわれわれがイエスのご人格に触れるならば、われわれの目に見える営みがいかにささやかなものであれ、われわれの心から生ける水の川が流れ、地の果てに至るまで祝福するであろうとイエスは言われる。われわれから流れ出るものについてわれわれはあずかり知らない。「あなたがたが…を信じること、それが神のみわざである。」一人の魂がいかに偉大な祝福であるかを神はその人本人にはまず見せてくれない。

川は驚くほど一貫している。川はあらゆる障害物を乗り越える。しばらくは川はゆるやかに流れる。そして障害物に出会うとしばらく止まる。しかしまもなく障害物のまわりに進路を作る。あるいは川は何マイルも目に見えなくなる。そしてやがてさらに広くさらに大きくなって現われる。あなたは神が人々を用いておられるのを見る。しかしあなたの人生には障害物が来て、あなたは何の役にも立っていないように見える。「源」から目を離さないようにせよ。そうすれば、神は障害物をよけさせるか、それともそれを取り除かれる。決して障害物や困難な事そのものに見いるな。あなたが「源」と結びついているなら、あなたを通してたえず流れる川にとって障害物は重要なことではない。あなたとイエス・キリストの間にどんな感情もどんな経験もどんなことも決して入らせてはいけない。唯一の偉大な至高の「源」からあなたを引き離すものがあってはならない。

 われわれを洗いきよめ豊かに広がる川がわれわれの魂の中で次第に大きくなっていることを考えて見よ!神はすばらしい真理をわれわれの心の中に明らかにしてくれている。そして神が明らかにしてくれる一つ一つの真理は、われわれの中に神がさらに大きな力を持つ川を流れさせてくれる印である。あなたがイエスを信じるなら、神はあなたを人々にとって祝福の大河に育ててくれていることを知るであろう。

 

No responses yet

種まきのたとえ

ルカによる福音書 8章4~15節(新共同訳)

 大勢の群集が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と大声で言われた。

 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 すべての恵みの源なる天の父なる神様。今朝、もう一度私たちをあなたが御目に留め、見えないあなたの意図をもって私たちを導き、“我に子よ”と御声をかけてくださいましてありがとうございます。あなたの命の泉へと私たちを導き、疲れた身体を癒し、心に新たなあなたからの命の水をいただくことのできる幸いを感謝いたします。

 私たちの手足を強め、あなたの御顔の光を仰ぎ、あなたと共に生きることの喜びをかみしめながら、新たな日を始められる今日のこの礼拝を心から感謝いたします。一人ひとり一週間の戦いを戦い終えました。多くの失敗があり、また勝利もありました。また、数々の思いがけないあなたからの折りに叶った助けをいただき、私たちはいつもあなたの見えざる御手のなかで守られ励まされてまいりました。あなたの御手に包まれていることをおぼえて感謝をいたします。不信仰な私どもは、しばしばあなたが目に見えないからといって、自らの不安や恐れや心配のなかに身を沈めそうになりますけれども、こうしてもう一度御言葉によって励ましてくださり、周りの風や嵐や、また私たちの下にあるこの水に恐れるのではなく、私たちの目の前にいてくださる生けるキリストに目を向けよ、とあなたが聖霊によって教えてくださいまして、感謝をいたします。“なぜ恐れるのか、不信仰な者よ”と主は弟子たちに語られましたが、どうか私たちが、信仰と不信仰との狭間にあって何度も失敗を犯しながらも、なお私たちの信仰の創始者であり完成者である主イエスを見つめながら、一日一日を歩んでいくものとさせてくださいますように。

 私たちに分からない答えがいくつもございます。生きていくということは、多くの悩みの中にある、ということを主は語られました。そのような状況の中にあって、あなたは私たちに“雄々しくあれ、恐れるな、おののくな。私はあなたと共にいると言ったではないか”といつも語りかけてくださることを感謝いたします。“私はあなたの主、わたしはあなたを助け、あなたを守り、あなたを導く”との真実な御言葉に感謝いたします。私たちの魂は生き返り、私たちの手足は強められ、もう一度私たちを小鹿のように飛び跳ねることができるようにしてくださる、あなたの大いなる恵みと麗しさを感謝いたします。

 今朝も御言葉をひも解き、主がお語りください。今日でなければならないあなたの御言葉を私たちの魂に語りかけ、留めさせてくださいますように。愚かな僕をどうか清めてご用にもちいてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 さて、今日の聖書の箇所は「種まきのたとえ」と普通言われている箇所であります。聖書の中にはたくさんのたとえが出てまいります。「からし種のたとえ」といった自然界の様々なものを用いたものや、あるいは「放蕩息子のたとえ」という、日常生活の素材をもとにして作られたものもございます。そういったたとえの多くは決して難しいものではなく、誰にでも分かる、また子どもが聞いても分かりやすいものでありますが、一体そういうたとえが何を意味しているのかということになりますと、そう簡単には分からないというのがこのたとえだと思います。

 今日の箇所にあります「種まきのたとえ」、これは当時の人々の生活が反映されている光景であります。誰が見てもそれはなじみのある事柄であったと思われます。ごく平凡な日常生活のひとこまであり、そして自然界の出来事であります。あのミレーが描いた『種まく人』という素晴らしい絵は、ここを題材にして描かれたものと思われますが、なぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。 Continue Reading »

2 responses so far