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Archive for 8月, 2009

一羽の雀さえ

ルカによる福音書 11:14~25(新共同訳)

 とかくするうちに、数え切れないほどの群集が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 恵みと慈愛に富みたもう天の父なる神様。新しい聖日の朝をこうして静かに与えてくださり、一週間のそれぞれの旅路を終えて、いろいろな重荷を背負い、あなたの御前にもう一度帰ってくることが出来ましたことを感謝いたします。「誰でも重荷を負うて苦労している者は私のところに来なさい」と、招いていて下さる主は、今朝も私たち一人ひとりの名を呼んで、私のところに来て憩いを得よ、と仰せ下さいますから、感謝をいたします。私たちは、人間的な思いや知恵や計り事ではどうすることも出来ないこの世の数々の悩みや試練、痛手の中に生きておりますが、主よ、あなたの御許に来る時にのみ、私たちは真の力を得、生命を得、あなたの泉から生命の水をくみ取ることが出来ますから感謝をいたします。今朝も私たちはいろいろの弱さを担って、御前に来ております。ある者は身体的な痛手を、弱さを、またある者は心の弱さを、日々の疲れを覚えて御前に来ております。あなたはそれをすべてご存じであり、あなたは創造の主であり、全てを新しくしてくださる御方であることを、主よ、感謝いたします。試練と同時に逃れの道をも備えたもう主が、私たちを決して耐える事のできない試練には遭わせないという真実な御方であることを、今朝も信仰告白いたします。そして私たちの理解出来ない事柄の中に、またある時は私たちが深く失望し、あるいは絶望するような状況の中にあっても、実は、あなたが背後にあって働いておられるという、そのことに私たちの心の目が開かれていきますように、私たちの信仰をどうか引き上げてくださいますようにお願いいたします。今朝も神様、この群れに属するお一人おひとりを、あなたはねんごろに顧み、その重荷をあなたが担っていてくださることを感謝いたします。「あなたの思い煩いを主にゆだねよ、主があなたがたのことを愛していてくださる」と御言葉にございます。お一人おひとりをあなたは覚えてくださり、あの羊飼いがその羊をいたわるごとく、導くごとく、今朝、あなたは私たち一人ひとりの置かれている状況をご存じであります。主よ、歩むべき私たちの道に光を与えてください。そしていつも心へりくだり、あなたからの力によって生かされて、強く生かしめてくださいますように。

 今朝もあなたの御言葉によって、私たちが生命の言葉に触れる事が出来ますように。愚かな僕を清めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 この季節は自然が美しく、新緑の候といわれます。私たちの目がこの自然によって癒され、心まで癒されるような、そんな美しい季節を迎えました。

 イエス様は私たちに自然を通して、数々の大切な真理を教えて下さっています。「空の鳥をみよ。野の花をみよ。」とイエス様は語りかけられまました。私たちが生きていく上で、本当に基本的な、無くてはならない真理を、そのような優しい言葉をもって私たちに教えてくださっています。イエス様のお育ちになったガリラヤ地方(イスラエルの北方にありますが)、そこには数々の美しい花々が咲き乱れているという事であります。この季節は特にガリラヤ湖の付近には、のどかな美しさがあると言われます。赤や黄色、白や紫のさまざまな花が、どこまでも澄んだ青空のもと、緑の草の上に咲き乱れ、そして静かな鏡のようなガリラヤ湖には数羽の鳥が白い腹をみせながら水面を飛び交っているということです。それはちょうど箱根の芦ノ湖に、奈良の若草山をいくつも並べたようなやわらかな美しさだといわれております。なだらかな曲線美を誇る日本の風景の中にもちょっと比べる物がないほど、美しい光景だ、とそこに行かれた方はよく言われます。

 そのような柔らかい自然の美しさの中でお育ちになったイエス様は、私たち日本人が自然を愛し、自然に深い親しみを覚える以上に、自然と共に生きておられたのだろうと思われます。ですからイエス様の教えの中には、自然からの観察を用いて、生きることの真理を述べておられるところが数多くみられます。今日の聖書の箇所、ルカによる福音書12章の中にもその事を窺い知ることができます。6節と7節では空の鳥、特に雀を例にあげております。また24節ではカラスのことを例にあげております。そして27節では野の花のことを考えてみなさいと言われます。自然の中の生きとし生ける物すべてに目を留めよ、とイエス様は言われるのであります。 Continue Reading »

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今日という日に

ルカによる福音書 41430節(口語訳)

 

 それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。

 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された。

 「主の御霊がわたしに宿っている。

 貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために。

 わたしを聖別してくださったからである。

 主はわたしをつかわして、

 囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、

 打ちひしがれている者に自由を得させ、

 主のめぐみの年を告げ知らせるのである。」

 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。

 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリアのナアマンだけがきよめられた」。会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落とそうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 恵み深い天の父なる神様、アドベント第一聖日の朝、晴れわたった素晴らしい太陽のもと、こうして私たちを教会に導いて下さり、良く整えられた礼拝堂にあなたを待ち望み、あなたの御名を讃美し、あなたの御顔の光を慕い求めることができて心から感謝をいたします。

 あなたは私たちを呼び、私たちの名を呼んで導き、「あなたは私のもの、私はあなたと共にいる。」と今朝も語りかけて下さって心から感謝します。あなたの御前に出る資格のあるものは誰一人いません。私たちは資格がないからこそ招かれていることを心から感謝いたします。今朝、あなたはもう一度私たちに御自身を現し、御言葉によって私たちに光を与え、道を示し、勇気を与え、一人ひとりの心を強くし、また癒し、あなたの僕として潔められ、すべての良きわざに邁進する者にしようとして、この礼拝を設けて下さいまして感謝をいたします。

今朝もどうか弱っている膝を強め、萎えた手をあなたが癒して、一人ひとりをもう一度新しく聖霊に満たし、私たちを新しくつくり変えて下さい。この寒さの中で風邪を引いている者や、弱っている者、入院している者、自宅で臥せっている者、一人ひとりをあなたはご存知でありますから、どうぞ癒しの御手をもってお癒し下さい。

また主よ。この降誕節、本当にあなたがこの世に来て下さったことを覚えて感謝しつつ、どのような時にもその事実を覚えて、心のうちにあなたの光を宿すものとさせて下さい。

今朝もこの愚かな僕をどうぞ潔めて、あなたのご用にお用い下さいますように。主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。 アーメン

 

 さて、今朝、司会者に読んでいただきました聖書の個所は、ルカの福音書の4章の14節からであります。いよいよイエス様の公の宣教がここから始まってまいります。このルカの福音書では、イエス・キリストの公の宣教が、故郷のナザレの村に帰っていくところから始まっております。このナザレでの宣教の記事は、他の福音書、マタイやマルコの福音書では、ずっと後になって出てくるのでありますが、ルカだけはそれをキリストの宣教の一番最初のところにもって来ております。イエス・キリストが具体的にどのような働きをなされたのかということを記しているのは、ここが最初であります。

 どうしてこの福音書を書いたルカが、ナザレでの宣教を最初にもってきたかということについては、明らかにひとつの意図がうかがえるのであります。それはこのナザレでの出来事がイエス・キリストというお方がどのようなお方であり、何をなさるお方であり、またキリストに続く後のクリスチャンたちが、どのような人々であり、何を使命とする人々であるか、そしてまたイエス・キリスト、そしてその後に続くクリスチャンたちが、他の人々からどのような反応を受けることになるかということを明らかにしているのであります。

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しかし、み言葉ですから

ルカによる福音書第5111節(口語訳)

 

 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 「苦しみのあったところに闇がなくなる。異邦人のガリラヤは光栄を受けた。闇のなかを歩んでいた民は、大きな光を見た。死の影の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

 愛する天の父よ。待降節の第二聖日の朝を迎え、あなたの御降誕の意味を、もう一度こうしてかみしめることのできることを感謝いたします。あなたがこの地上に来て下さったのは、闇のなかに住んでいる者に光を照らすためでありました。わたしたち一人ひとりの人生の闇と苦しみを、あなたはすべてご存知であり、その一人ひとりの心に光を灯すために、神の御子は私どものところに降りてきて下さいました。今朝もその主を仰ぎ、その御顔の光を求めて、礼拝を守らせていただいております。今日、飢え渇いた心をもって一人ひとり、あなたの恵みの御座に大胆に近づきなさいと仰せ下さるあなたの招きを受けて、このところに参りました。主よ、どうか一人ひとりの心にあなたの光を照らし、御言葉によってあなたの力を注ぎ、どうかわたしたちを、もう一度あなたの霊によって生かして下さいますように。あなたは私たち一人ひとりを愛し、一人ひとりが真の命に生きるようにとご配慮下さっていますことを感謝します。主はそのために尊い血を流し、その御身体を裂き、私たちのためにすべての贖いをなし遂げ、今日も私たちの贖い主、救い主、潔め主、癒し主として、私たちの目の前に立っていて下さることを感謝します。主よ、あなたがこの群れを愛し、この群れをご覧になり、弱っている者、衰えている者、病んでいる者、苦しんでいる者一人ひとりをご存知でありますから、どうかあなたの癒しの御手をもって一人ひとりに触れて下さい。一人ひとりがまたあなたの御衣に信仰の手を差し伸ばし、触れることができるように励まして下さい。

 今朝、私たちのこの群れに新たな会員としてK姉妹を迎えようとしています。どうかこの転会式を祝し、この姉妹のこれからの信仰の歩みをあなたの御愛をもって囲み、そのご生涯を通して主の栄光が現れるように、あなたが力強く導いて下さいますようにお願いをいたします。

 今朝も、入院をしておられるH姉妹と共にいて下さい。また、体弱って自宅にいらっしゃる方々をどうぞ強めて下さい。風邪をひいていらっしゃる方々をどうぞあなたが顧み、癒しの御手を置いて下さいますように。

御言葉によってどうぞ今日、私たちをあなたの真理の道へと導いて下さい。愚かな僕を潔め、あなたの御栄えのために用いて下さいますように。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

私たちはこの礼拝のなかで、ルカによる福音書を共に見ておりますが、他のマタイによる福音書や、マルコによる福音書と同じように、イエス様が故郷のナザレだけは別として、ガリラヤ地方では多くの人々から受け入れられたと記されております。ガリラヤ地方というのは、イスラエルの北部に広がる緑豊かな地方であります。そこにおけるイエス様の働きを、多くの群衆は見いだし、そしてイエス様に引きつけられていくのであります。このイエス・キリストのご生涯の中で、後にエルサレムで苦難を受けられるあの時期を『エルサレムの冬』と呼ぶことがありますが、このガリラヤ宣教の時期は『ガリラヤの春』と呼ばれたりもします。イエス様のこの宣教の初期におきまして、その評判はますます広がり、日々おびただしい群衆がイエス様のところに集まってきていたということがわかるのであります。ルカの福音書4章の31節から5章の16節までが、そのガリラヤ宣教のイエス様の日々の姿を、たいへんよく表している箇所であります。

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貧しい者の幸い

ルカによる福音書  第612節~23節 (口語訳)

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ、このユダが裏切者となったのである。そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、教えを聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。

そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた。

 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。

 神の国はあなたがたのものである。

 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。

 飽き足りるようになるからである。

 あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。

 笑うようになるからである。

 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、 汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

 その日には喜びおどれ、見よ。天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、予言者たちに対して同じことをしたのである。

 

ひとことお祈りいたしましょう。

恵みと憐れみに満ちたもう天の父なる神様、過ぐる一年間も私たちを導いてくださり、こ のように新しい年の最初の礼拝を迎えることができて心から感謝をいたします。いつも変わることなくあなたは私たちに御目を向け、心にとめ、一人ひとりの歩みをしっかりと導いてくださっていることを感謝いたします。この新しい年も夢と希望をもって、こうしてあなたの御前に御顔を仰ぎ見ております。新たな決意をもってこの礼拝に集わしめてくださっていることを感謝します。いろいろな歩みがこれから待っていることと思いますが神様、どうか私たちがあなたから離れることなく、いや、たとえ多くの失敗をおかし、自己嫌悪に陥るような時があろうともあなたはいつも私たちを待っていてくださるお方であり、私たちがあなたの御許に帰っていくならば、そこからいつも新しい出発であることを私たちに示してくださることを感謝いたします。そしてこの年も“我に来たれ”と言われるあなたの御声を聞きつつ、いかなる時にもまずあなたの御許にたち返り、あなたとの交わりからすべてを始めていくものとならしめてくださいますように。私たちの生きる拠り所と力と命の源がどこにあるかをしっかりと見つめていくものとさせてください。こうして新年の最初の礼拝にあずかることができたように、この一年間もどうかいつもいつもあなたの宮においてあなたのうるわしさを仰ぎ見、あなたの慈しみを味わうものとさせてくださいますように。そして一人ひとりが貴方から励まされ、力を与えられ、正しい道を示され、勇気が与えられ、キリストの愛に満たされて、それぞれの一隅を照らしていくものとさせてくださいますようにお願いいたします。

今朝もあなたの御言葉を祝し、どうか私たちが御言葉を深く理解することが出来るように助けてください。おろかな僕をどうか憐れみ、清め、あなたの御用に用いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。 アーメン

 

今朝、読んでくださいました聖書の御言葉は、イエス様が山の上で一晩中祈られて、12人の弟子たちを選ばれ、それから平らな所に下りてこられて、人々に教えを説かれたことが記されております。この20節のところから6章の終わりまでのところは、あのマタイの福音書の5章から7章にあります、いわゆる山上の説教と言われているものに似ている箇所であります。ただ、その二つを比較しますといろいろ違っているところもあります。ルカの福音書では、イエス様は山上ではなく平地で説教をなさっておられます。そしてその説教の長さもマタイの福音書の4分の1程にしか過ぎません。マタイもそしてルカも元々同じ資料からとってきたものと思われますが、マタイの福音書の方がルカよりもはるかに多くの資料を集めたと思われます。このイエス様の教えを聞くために6章の17節を見ますと、ユダヤの全土からそしてまたエルサレムからキブスやシドンの海岸地方から、大群衆がイエス様のところへ押し寄せてきたということが分かります。その群衆の中には、病気の人もいますし、人生に疲れ果てている人もいます。いろいろな問題に困り果てている人もいます。いろいろの人がその中にいたことが分かります。イエス様はその一人ひとりに御言葉を伝えておられるのであります。そしてその説教の中でイエス様が語っておられます事柄は、幸いと不幸ということについて、敵を愛するということについて、裁くということについて、誠実ということについて、そして聞くことと行うことということについてです。

 

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悲しみの火の中で自分を見出す

My Utmost for His Highest by Oswald Chambers 625日(私訳)

 

                 

『「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。』ヨハネ122729

 

聖徒として、悲しみや困難に対する私の姿勢は、そういったことが起こらないようにというのではなく、あらゆる悲しみの火を通して、神によって創られた私の自己を保てるようにと願うことである。われわれの主は悲しみの火の中でご自分を受け止められた。主はその時から救い出されたのではなく、その時を通して救い出されたのである。

 われわれは悲しみがあってはならないと言う。しかし、現実に悲しみはある。われわれはその火の中で自分を受け取らねばならない。もし、われわれが悲しみを回避しょうとし、それを考慮すべき事柄としないならば、われわれは愚かである。悲しみは人生の揺るがしがたい事実であり、悲しみがあってはならない、と言っても何の役にも立たない。罪も悲しみも苦しみも現実にあるのであり、そのようなことを存在させているのは神の過ちである、とわれわれが言うことはできない。

 悲しみは人間の心の浅はかさを随分と燃やしつくしてくれる。しかし、それは必ずしもその人を成長させるとは限らない。苦しみを通して自分を見出すこともあれば、自分を破壊することもある。あなたは成功して自分を見出すことはできない。有頂天になりはしても。平穏無事な生活の中で自分を見出すこともできない。不平をこぼすことはあっても。自分を見出す道は悲しみという火を通してである。どうしてそうなのかは分からない。しかし、それがそうであることは聖書と私たちの経験から真理である。悲しみという火を通して自分を見出した人が誰であるか、あなたには必ず分かる。そして、あなたが困難に直面している時にその人のところへ行けば、あなたのために十分時間を取ってくれることが確信できる。悲しみという火を通っていない人は傲慢になる傾向があり、あなたのためにさく時間を持っていない。あなたが悲しみの火の中で自分を見出しているなら、神はあなたを他の人の心を育む人にしてくれるであろう。

 

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神の偉大な「べからず」

My Utmost for His Highest
by Oswald Chambers
7月4日(私訳)

腹を立てるな。それはただ悪への道だ。』詩篇37:8

苛立つということは、精神的にも霊的にも貧しくなることである。「苛立つな」と言うことと、苛立たない性質を持つこととは別物である。巣がひっくり返されるまでは――つまり、多くの人がそうであるように、動揺や苦悩の中で生きるようになるまでは、「主の中に憩う」とか、「忍耐強く主を待つ」とか言うことはとても容易いことに思える。本当に動揺や苦悩が来ると、主の中に憩うことができるか。もし、この「苛立つな」という神の戒めがそのような時に影響力を持たないなら、他のどんな時にも影響力を持たないであろう。この「べからず」ということは、平和の日にも困惑の日にも影響力を持たねばならない。さもなければ、影響力を持つことは決してない。そして、もしこれがあなたの特殊な場合に影響力を持たないのなら、他の人の場合にも影響力を持つことはない。主の中に憩うというのは、外的な状況にまったく依存しない。神ご自身に対するあなたの関係に依存するのである。

苛立つことは常に罪に行きつく。わずかな不安や心配はわれわれが真に賢い証拠であるかのように思ったりする。そうではなくて、われわれが本当はどれくらい悪しき者であるかの証拠である。苛立つということは、自分の意地を張るというところから起きている。われわれの主は決して不安にならなかったし、決して心配していなかった。なぜなら、主はご自分の考えを「やり遂げよう」としていたのではなかったからだ。主は神のお考えを実現しようとしておられたからである。もしあなたが神の子どもであるなら、苛立つことは悪しきことである。

あなたは自分の置かれている状況が神にもどうすることもできないという考えを持って、あなたの愚かなたましいを助長させてきたのだろうか。あらゆる「仮定」を脇に置いて、全能者の蔭に身を住まわせよ。あなたはその事について苛立たない、と断固として神に告げよ。われわれのすべての苛立ちや心配は神を計算に入れずに考えることから生じているのだ。

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迫害を受けるときのふるまい

My Utmost for His Highest
by Oswald Chambers
7月14日(私訳)

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。』マタイ5:39

上のみことばはクリスチャンが受けるであろう辱めを表している。普通の場合、打たれても打ち返さないならば、その人は臆病者と思われる。しかし、信仰の世界では、打ち返さないのはその人の内におられる神の御子の表れである。もしあなたが侮辱された場合、そのことに憤慨しないだけでなく、それを神の御子を表明する機会となすべきである。あなたはイエスのご性質を真似することはできない。イエスのご性質を持っているか、持っていないかのどちらかである。聖徒にとって、個人的な侮辱を受けることは主イエスのすばらしい芳(かぐわ)しさを表明するチャンスである。

山上の説教の教えとは、「あなたの義務を果たしなさい」というものではなく、「あなたの義務でないことをしなさい」というものである。

2ミリオン行ったり、左の頬を向けたりすることはあなたの義務ではない。しかし、もしわれわれがイエスの弟子であるなら、われわれはこのようなことを常にするであろうとイエスは言われる。「もうこれ以上耐えられない。あまりにも間違った事を言われ、私は誤解されている」と言う態度は持たない。私が自分の権利を主張するたびに、神の御子を傷つける。その反対に、私が痛撃を自分で受け取るならば、イエスが傷つくのを防ぐことができる。キリストの苦しみの欠けたところを満たすというのはこのことである。自分の名誉ではなく、イエスの名誉が自分の生きざまにかかっていることを、イエスの弟子は知っている。他の人に決して正しさを求めるな。しかし、自らは正しくあることをどこまでも追求せよ。われわれは常に正義を人に求めている。しかし、山上の説教の教えとは、「正義を人に求めるな。そうではなく、常に正義を人に与えよ」というものである。

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神のご支配という思い

My Utmost for His Highest
by Oswald Chambers 
7月16日(私訳)

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。』マタイ 7:11

イエスは主の御霊を持っている人々のための行為のルールをもうけている。これらの節の単純な論議によって、イエスはわれわれの思いを、すべての物事の背後に神のご支配があるという考えで満たすように勧めている。つまり、イエスの弟子は完全な信頼と、熱心に求めかつ探す姿勢を保たねばならないという意味である。

神がそこにおられるという考えであなたの思いを満たしなさい。ひと度思いがそのように満たされるなら、あなたが困難に直面しても、「私の父がすべてをご存じである」と思い出すことは呼吸をするのと同じくらい簡単なことである。それは努力することではない。困惑が圧迫してくるとき、自然にそのように思えるのである。かつては、あなたはあちらの人こちらの人にと頼って行っていた。しかし、今では神のご支配という思いがあなたの中に力強く形成されているので、あなたは困難に際して神の御許に行く。イエスは主の御霊を持っている人のために行為のルールを教えている。そして、御霊は次の原則の下で働かれる。「神は私の父である。神は私を愛しておられる。神が気にとめられないことを私は考えない。なぜ私は心配しなければならないのか。」

神があなたの闇を取り除かれない時がある、とイエスは言われる。しかし、神を信頼しなさい。神が不親切な友人のように思われる時がある。しかしそうではない。神が自分の父親ではないように思われる時がある。しかしそうではない。神が不義な裁判官のように思われる時がある。しかしそうではない。すべての物事の背後に神がおられるという考えをますます強いものにしなさい。神のご意思が背後になければ何も起こらない。だから、あなたは神を完全に信頼して心を平らかにすることができる。祈りとは求めることだけではない。求めることがごく自然なものとなる環境を生み出す心の姿勢である。「求めなさい。そうすれば与えられます。」

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オズワルド・チェンバーズ霊想集

 

                  あなたは雲の中に何を見るか

『見よ、彼が、雲に乗って来られる。』黙示録1:7

 

 聖書の中では雲は常に神と関連している。雲とはわれわれの人生の内面ないしは外面の悲しみ、苦しみ、あるいは不幸のことであり、神のご支配に疑いをはさむように見える事柄である。まさにそれらの雲によって神の御霊がわれわれに信仰によって歩むことを教えてくれているのである。「雲とは天の父の足についている埃にすぎない。」雲とは神がそこにおられることの証拠である。悲しみや死別や苦しみが神の乗って来られる雲であるとは、なんという啓示であろうか!神は雲なしにはわれわれに近づかれない。神は輝く白日のもとには来られない。

 神は試練によってわれわれに何かを教えようとされていると言うのは本当ではない。神がもたらされるすべての雲によって、神はわれわれが今までに学んだことを忘れることを求めておられる。雲をもたらす神のご目的は、神に対するわれわれの関係がちょうど子供のようなものになるほどに、われわれの信仰を単純なものにすることである。つまり、神と私自身のたましいだけがあり、他の人々は影にすぎない、そんな関係である。他の人々が影になるまでは、雲や暗闇は時にわれわれのものとなる。私と神との関係がかつてないほどに単純なものとなっているだろうか。

 神の不思議な導きとわれわれの知っている神についての知識との間にはつながりがある。われわれは人生の神秘を神について知っている知識に照らして解釈することを学ばねばならない。最も暗い、最も暗澹たる事実を、神のご性質を損ねることなしに直視できるようにならなければ、神を知っているということにならない。「彼らが雲の中に入って行った時、彼らは恐れた…」あなたの雲の中に「イエス以外」に誰かがいるのだろうか。もしいれば、さらに暗くなるであろう。あなたは「もはやイエス以外にだれもいない」という所にまで来なければならない。

 

 

 

 

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不可解な神の召し

My Utmost for His Highest by Oswald Chambers 85日(私訳)

 

『人の子について預言者たちが書いてあるすべてのことが実現するのです。…しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。』ルカ福音書183134

 神はイエス・キリストを全くの不幸と見えることのために召された。イエス・キリストは弟子たちにご自身の殺されるのを見せるために召された。キリストは一人ひとりを心が張り裂ける所へと導かれた。イエス・キリストの人生は神の視点を除いては、あらゆる点から見て失敗であった。しかし人間の視点から見て失敗であるように思えたことが、神の視点からは驚くべき勝利であった。なぜなら、神の目的は決して人間の目的ではないからである。

 私たちの人生のおいても不可解な神の召しが来る。神の召しは決してはっきりと表現できるものではない。それはそれとなく表現される。神の召しとは海の呼びかけみたいなものである。自分の中に海の本性を持っている人以外は聞こえないのである。神の召しが何のためにあるのか、明確に表現することはできない。なぜなら、神の召しとは神ご自身の目的のために神と友達になることであるから。そして、神はご自身が何をされようとしているかご存知である、ということを信じられるかどうかが試金石である。出来事は偶然に起こるのではなく、完全に神の意図のもとで起こるのである。神はご自身のご計画を実現しょうとされている。

 もしわれわれが神との交わりの中にあり、神がわれわれをご自身の目的へと導き入れておられることを知っているなら、われわれはもはや神の目的を見出そうと努力することはないであろう。クリスチャンの生活は続けていくにつれて、ますます単純なものになる。なぜなら、「なぜ神はこれこれ云々のことが起こるのを許されたのか」と聞くことがしだいに無くなっていくからである。すべての物事の背後に避けられない神の力が横たわっている。「われわれの人生の目的を形作る神がおられる。」クリスチャンとは自分の知恵ではなく、神の英知と知恵を信頼している人のことである。もしわれわれが自らの目的を持っているならば、神の子供たちを特徴づけている単純さや落ち着きを壊してしまう。

 

 

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