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Archive for 1月, 2009

Grace-given Constancy

GRACE-GIVEN CONSTANCY
Joshua 3:9-17

The crossing of the Jordan River was the first step of faith for the young new leader, Joshua, the priests and the whole people of Israel. If they fail in this endeavor, their many years of hardship in the wilderness becomes futile, their hopes for entering the promise land will be shattered. This was something they had to do, something they could not avoid to make their life meaningful. Continue Reading »

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アイダホ州のNPO

私たちがマニラにいた時に、時々アメリカの教会を回る機会がありました。そんな機会に様々な所を見学して視野を広めることができました。下の写真に あるのは、アイダホ州のナンパという町にある、Hands of Hope(希望の手)というNPOであります。現在、私たちの親しい知人がそこで働いています。このNPOでは各地の病院で使わなくなった古い医療機器や 補助器具などを譲り受けて、それを世界の必要としているところへ送っています。全米でこのようなNPOは二つだけあるのだそうです。病院では医療機器が日 進月歩でどんどん新しいものが出てきますから、古くなったものは使われなくなります。また、車椅子とか、杖とか、等もたくさん余っています。そういった物 を整理し、倉庫に保管し、修理するものは修理し、アフリカや、アジア、ロシアに年に二回ほど大きなコンテナで送り出します。病院から譲り受けるのは無料で すが、船で外国まで運搬してもらうのに多額のお金がかかりますので、それは教会の献金でまかなっています。このような草の根の運動はなかなか普通のメディ アでは報道されませんが、これによって恩恵を受けている人々はかなりの人数になると思います。地道にこういった活動をすべてボランティアでしていることを 見て、大変勉強になりました。日本では使わなくなった医療機器や器具をどのようにしているのでしょうね。

(ハンズオブホープというNPOの前で、アイダホ、2005年)

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落ち着いて見よ

「(あなたがたの)手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」ローマ6:13-22

私は自分を救い、自分を聖い者にすることはできない。私は自分の罪を自分であがなうことはできない。私は世界を救うことはできない。私は過ちを正すこと や、不純なものを純粋にすることや、汚れたものを聖くすることはできない。これらはすべて卓越した神のみ業である。私にはイエス・キリストがなさったみ業 に対する信仰があるだろうか。キリストは完全なる贖罪を成し遂げられた。私はそれを常に思い起こしているだろうか。大切なことは「行う」ことではなく、 「信じる」ことである。キリストの救いは経験ではない。それは神がキリストを通してなされた偉大な神のみ業である。私はそのみ業の上に私の信仰を築かねば ならない。もし、私が自分の経験の上に信仰を構築するならば、私は全く非聖書的な信仰を作り出すことになる。私の眼は自分の潔白さに固定された、孤高の生 を生み出すことになる。主のあがないを前提としない敬虔に気をつけなさい。それはこの世離れしてなんの役にも立たない。それは神にとって役に立たず、人に とって迷惑である。すべての経験をわれわれの主ご自身に照らして測れ。贖罪の前提の上に意図的に信仰を打ち立てない限り、神に喜ばれることは何もできな い。

イエスの贖罪は私の生活の中で実際的に、目立たない形で具体化しなければならない。私が神に従うとき、絶対なる神が私の側に立ってくださる。そして、神の 恵みと私の信従は同時に起こる。信従とは贖罪にすべてを任せるということである。そのような信従には神の超自然的恵みの喜びが即伴う。

人間の生まれつきの生を否定するような敬虔に気をつけなさい。それは偽りである。絶えず自らを贖罪の秤にかけなさい。このことは贖罪に照らしてみてどう判断すべきか、あのことは贖罪に照らしてどう判断すべきか、と問いなさい。

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救いにいたる神の力 神の福音(喜ばしい神のおとずれ)Good News、 信じる者に救いを得させる神の力

(この資料は使徒パウロの書いたローマ人への手紙を土台としている。この中でパウロは人間の根本的問題とそれからの解放を述べている。この驚くべき不朽のメッセージを注意深く読み取って欲しい。 そして神の恵みと愛がいかにすばらしいものであるか体験してほしい。)

1.人間のすべての問題の根源的原因は、創造主なる神を神としてあがめ、感謝することなく、かえって創造主の代わりに造られたもの(被造物)を神と している(偶像崇拝)ことである。創造主なる神を神とせずに神でないものを神としているところに、人間のすべての問題の根本的原因がある。

  • このことは聖書の創世記にある最初の人間アダムが犯した間違いに始まっている。アダム以来すべての人がこの状態に陥っている。
  • 偶像崇拝ということで何かの像を拝むことだけを想像してはいけない。お金も異性も人間もイデオロギーも思想も趣味も成功も幸福も学歴も地位も、有 形無形のどんなものでも偶像になりうる。「健康」でさえ偶像になりうる。すべての人が持っている偶像とは『自分』という偶像である。この世で『自分』ほど 大事なものはないという思いが自分を偶像化しているのである。『自己実現』したいという思いが偶像崇拝なのであ。本当は人間は『神実現』をするために造ら れた存在なのである。創造主なる神の御姿をこの地上にあって映し出すことが人間の存在の意味なのである。それを忘れ、神以外のものを神以上に重要視するこ とを偶像崇拝と言う。 Continue Reading »

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マニラ湾の戦争記念碑

下の写真はマニラ湾に近い所にあるフォートサンチアゴという公園の中にある戦争の記念碑です。十字架の後ろに見える入口は旧スペイン統治時代の要塞です が、第二次世界大戦の時、日本軍が米軍とフィリピン人の捕虜数百人をここに閉じ込めて、食べ物を与えず餓死させたと言われています。鉄格子で閉じ込められ て、狭いところで窒息死したとも言われています。私はここに学生の時に一度訪れたことがありました。あの頃、まだ戦争の記憶が生々しく残っていて、いたる 所で戦争の傷跡があり、日本人であることが居たたまれない思いがしました。あれから40年後、私は再びこの同じ場所に立ちました。日本のアジアにおける立 場は随分と変わったことを感じました。日本が戦争を放棄し、アジアの国々に経済的人的支援を惜しまずに行ってきた成果だと思います。しかし、それでも戦争 のもたらした傷はいまだに癒えないものがあり、フィリピンの人達と親しくなると戦争の傷を話してくれるようになります。今、世界は再び軍備拡張が進み、経 済的破綻が見られます。あちこちで国と国とが疑心暗鬼になってきています。ロシアもアメリカも中国もイランも北朝鮮も軍備を拡張しています。世界は危険な 方向に進んでいると感じないでしょうか。この様な時こそ私たちは戦争の悲惨さを忘れてはならないと思います。

(マニラ市のフォートサンチアゴにある戦争記念碑、2007年)

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慈悲の泉

慈悲の泉
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:14
われわれの主がここで与えておられるイメージは水路ではなく、泉である。「満たされ続けよ。」そうすれば、イエスとの活きた交わりから生じる優しさが主 から与えられるだけ聖徒から豊かに湧き上がるだろう。もし、あなたのいのちが思うように湧き上がっていないならば、自らに責任がある。湧き上がるのを何か が妨げているのである。いのちの源なるお方と正しい関係を保ちなさい。そうすれば、あなた自身が祝福されると言うのだろうか。否、あなたから生けるいのち の水が、押さえ切れないいのちが湧き上がるのである。
われわれはイエスが生ける水の川となって流れ出ることのできる水源となるように求められている。それがすべての人に祝福をもたらすのである。ある人々は 死海のごとくである。いつも水が注ぎ込まれているが、注ぎ出されることがない。それは主イエスと正しく結ばれていないからである。主から受ける分だけ確実 に主はわれわれを通して注ぎ出される。主が注ぎ出されていない分だけ、主とわれわれの関係に欠陥がある。あなたとイエス・キリストの間に何かあるのだろう か。何かが主を信じるのを妨げているのだろうか。そうでないならば、あなたの中から生ける水の川が流れ出る、とイエスは言われる。それは祝福が受け継がれ ることでもなければ、経験が語られることでもない。川が流れ出るのである。いのちの源なるお方のところにいなさい。イエス・キリストに対する信仰と関係を しっかりと守りなさい。そうすれば、他の人々のためにいつも水が流れ出る。無味乾燥とか無感動ということが無くなる。
「個々の信仰者から川が流れ出るというのは言い過ぎではなかろうか。」「川が流れ出ているとは思えない」とあなたは言う。自分は何者だろう、という観点 から決して自分を見てはいけない。神のみ業の歴史を見るならば、殆どいつもそれは目立たない、無名の、無視されている人、しかし、イエス・キリストに対し て常に真実な人、そういった人から始まっていることが分かるであろう。

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思案せず歩み出せ

My Utmost for His Highest by Oswald Chambers 6月18

「そこで、ペテロは、、、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、、、」マタイ1429-30

風は確かに荒れ狂っていた。波は事実大きく上下していた。しかし、ペテロは最初そういったことに目を留めなかった。彼はそういったことを考慮に入れなかっ た。彼はただ主を見つめて足を踏み出し、そして水の上を歩いていった。その後で、彼は現実を考慮し始めた。すると、彼はすぐに沈み始めた。どうして主はペ テロを強めて、いかなる波の上でも歩けるようにしてあげなかったのだろうか。主イエスを見つめることなしには、どうしてあげることもできないのだ。

我 々はある事柄に関して、神を信じて歩み始める。ところが、自分の事を考え出すと沈んでしまう。もし、あなたが主を見つめているのならば、主があなたの環境 をどこへ導こうとも、あなたには関係がない。現実は現実としてそこにある。しかしひとたびあなたがそれを見るや否や、あなたはそれにのみこまれて、イエス を見失う。すると主の叱責が来る。「どうして疑うのか。」現実の状況はそのままにしておきなさい。イエスを見つめ続けよ。主に完全により頼み続けよ。

神があなたに語った時に、あなたが僅かでも思案するなら、おしまいである。「さあ、神様は本当に語られたのだろうか」とは決して言ってはいけない。結果を 気にせず、ただちに主を信じて身を投げ出せ。神の声がいつかかるか私たちには分からない。しかし、どんなにささいな方法でも神に気づくならば、思い切って 自らを投げ出せ。自らを投げ出すことによってのみ、神が分かる。思い切りによってのみ神の声をさらに鮮明に理解するであろう。

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ありふれたものの輝き

ありふれたものの輝き
「心の貧しい者は幸いです。」マタイ5:3
我々の基準では物の数に入らないと思うようなものに新約聖書は注目する。「心の貧しい者は幸いです。」これは文字通りに言うと、ひどく貧乏な人は幸いで ある、という意味である。どこででも見られるごくありふれた事である。今日の説教は意志の強さとか、性格のすばらしさとか、すぐ目につく事を強調する傾向 がある。我々がしばしば耳にする、「キリストを受け入れる決心をせよ」ということを強調する言葉は、我々の主が決して信頼を置いていないことである。キリ ストは我々がキリストを受け入れる決心をすることを決して求めてはいない。キリストは我々が主に自らをささげることを求めておられる。この二つは全く異な ることである。イエス・キリストの御国の土台には、ごくありふれたものの、変わることのない美しさがある。私が幸いなのは、私の貧しさである。自分には強 い意志も、性格の高潔さもないと分かっているなら、イエス様は言われる。「あなたは幸いである。なぜなら、その貧しさを通してあなたは神の御国にはいるの だから。」私は神の国に善男善女として入ることはできない。全くの貧しい者としてのみ入ることができるのである。
神にとって意味のある性格の真の美しさとは常に意識されていないものである。人に影響を与えることを意識しているのは道徳家ぶっているのであり、キリス ト教的ではない。「私は何かの役に立っているだろうか」と言うや否や、私は主のご性質の輝きを失う。「私を信じる者は、その人の心の奥底から生ける水の川 が流れ出るであろう。」もし私がその流れ出る水を吟味しょうとするなら、主のご性質を失う。
我々に最も強い影響を与えた人々とはどのような人であっただろうか。それは我々に影響を与えただろうと思っている人たちではない。我々に影響を与えたと は微塵も思っていない人たちである。キリスト信仰において絶対的なものは全く意識されないものである。意識するや否や、イエスのご性質の特徴である変わら ざる美しさが無くなるのである。
イエスが働いておられる時というものを我々は知っている。なぜなら、イエスはごくありふれた人の中になにか輝くものを生み出されるから。

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あなたは心が騒いでいるか

あなたは心が騒いでいるか

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたに私の平安を与えます。」ヨハネ14:27
私たちが無知であるがゆえに平安であるという時もある。しかし、人生の諸事に目覚めると、イエスから心の平安をいただく以外に心が平安になるすべがなく なる。我々の主が「平安あれ」と言われる時、平安が実現する。キリストのみ言葉は「霊といのち」である。イエスが言われる「平安」を受け取ったことがある だろうか。「わたしはあなたがたに私の平安を与えます。」それは主の御顔を仰ぎ見、主の心の平静さに気づく時に得られる平安である。
今この時、あなたは痛いほど心が騒いでいないか。神の摂理がもたらしている人生の荒波に心を取り乱してはいないか。あなたの信仰を隅々まで吟味しても、 それでも平安の泉、喜び、慰めを見出すことができないか。すべてが不毛であるか。ならば、主を見上げ、主イエスの平静な心を受け取りなさい。キリストの平 安を受けられるということは、あなたが神と正しい関係にあることを証ししている。なぜなら、あなたは思いのままに神に心を向けることができるのであるか ら。もし、あなたが神と正しい関係になかったら、あなたは自分に思いを向ける以外、他に向けようがないのである。イエスキリストの御顔を仰ぎ見ることがで きないとするならば、あなたは心が騒いでいるか、それとも偽りの平安を持っているかどちらかである。
今差し迫っている事の中で、イエスを仰ぎ見ているか、そして、主から平安を受け取っているだろうか。もし受け取っているならば、主はあなたの心の中で、 そしてあなたを通して恵みあふれる祝福となるであろう。しかし、もしあなたが自分で気に病むなら、主をあなたの心から消してしまい、あなたは当然の結果を 受けるのである。我々が心を騒がせるのは、主に思いを寄せていないからである。イエス・キリストと相談していくなら、当惑はなくなる。そして、我々の唯一 の関心事は主にとどまるということだけである。主の御前にあなたの心のすべてをつぶさに告げよ、そして、困難、喪失感、悲しみの只中で、「あなたがたの心 を騒がせてはなりません。」という主のみ言葉に耳を傾けよ。

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