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Archive for the 'メッセージ' Category

祝福の力

出エジプト記1:1-14 (新改訳)

 さて、ヤコブと一緒に、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンとベニヤミン、ダンとナフタリ、ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いという時に、敵側についてわれわれと戦い、この地から出ていくといけないから。」そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

 一言お祈りいたします。

 恵みとご自愛に富みたもう天の父なる神様。新しい年をこうして与えてくださり、「この年も我に来よ。」と招いてくださって、あなたについて歩んでいける幸いを心より感謝いたします。私たちが歩む前にすでにあなたは私たちの先を歩んでくださり、そして私たちの必要をことごとくご存じの上で道を選びとり、私たちを一歩ずつ導いて下さいますから感謝いたします。この朝も兄弟姉妹たちをあなたが集めてくださり、神の愛、イエス・キリストの贖いの恵み、聖霊の交わりによって礼拝を通して、新しく確認できますから感謝いたします。この年もどうか新たな飛躍の年となりますように。どうぞあなたのみ霊の導きに敏感に従って行くことが出来ますように。どうか私たちの心に聖霊さまが数々のことを教えてくださって、それらを漏らすことなく受け止め、実行していくことが出来ますように導いてください。どうかあなたのみ言葉が私たちの魂に錨のように打ち込まれますように。楔のようにどうぞ私たちの魂に打ち込んでくださって、どうか私たちがあなたのみ言葉によって押し出されるように生きていくことが出来るように導いてください。この世の声、また様々な人々の声によって動かされるのではなくて、どうか天来のみ声によって動かされる者とならしめてくださいますようにお願いいたします。そしてまた神様、どうぞ一人ひとりに天来の知恵を与え、アイデアを与え、インスピレーションを与え、一人ひとりの生命が、才能が、与えられている賜物が十分生かされることが出来ますように。私たちのことをご存じであるあなたが働きかけ、導いてくださいますことを切にお願いいたします。またあなたの導きを知ることが出来る純粋な敏感な心をもつことが出来ますようにしてくだい。どうぞ私たちがあなたのみ声に対して、いつも聞き耳を立てていくことが出来ますように備えさせてください。また主よ、どうぞこの教会もこの一年を通して新たな前進を見ることが出来るように導いてください。多くの恵みと祝福と慈しみをあなたが備えていてくださることを信じて感謝いたします。お一人お一人の歩みをどうぞあなたが確かなものとしてくださいますようにお願いをいたします。そしてまた私たちの信仰を引きあげてあなたに更に強く信頼していくものとさせてくださいますようにお願いいたします。今朝与えられましたあなたのみ言葉をどうか聖霊さまが私たち一人ひとりに当てはめて、生命の言葉として、生命の真清水としてお与えくださいますようにお願いいたします。どうかこのしもべを聖めてあなたのご奉仕に用いてください。

感謝をし、主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。 アーメン。

 この新しい年に今お祈りをさせていただきましたように、お一人お一人にとってまた教会にとって、主の恵み深い導きがあることを深く願っております。何があろうと神様のご愛と恵みは決して変わることがないと、その事を私たちが深く信じていくことが出来る、そのような信仰の一年でありますように願っております。この出エジプト記という書物はご存じのとおり、モーセという偉大な指導者を通してイスラエルの民がエジプトから救い出されてあの紅海を渡って、そしてシナイ山に着き、そこで神様からいわゆるモーセの十戒と言われるものを受けて、荒野を四十年もの間旅しながら約束の地カナンに向かって行くという、壮大なドラマが展開されている書であります。出エジプト記はイスラエルの人々にかぎらず、私たち一人ひとりにとって信仰を理解する上で、かけがえのない書物であります。出エジプト記を学んでいくことを通して私たちの信仰生活が強められ深められていくことを心から願っております。 Continue Reading »

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言葉の力

ヤコブの手紙3:1-12 (新改訳)

 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。

 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

 一言お祈りいたしましょう

 恵みと憐れみにとみたもう天の父なる神様。あなたのなさる事は時にかなって麗しいと御言葉にある通り、私たちの生活もまた人生も、あなたが豊かな憐れみの御目をもってみそなわして下さり、私たち一人ひとりをあなたの御手の中で導いてくださいますから、心から感謝いたします。過去一週間、雨の日が多くありましたけれども、そしてそれが地を潤し、また豊かな収穫をもたらしてくれる事でありますが、今朝はこうして澄み渡った秋晴れの朝を与えてくださいまして心から感謝いたします。今日も兄弟姉妹たちがこうして遠くから近くから三々五々あなたの御前に集ってまいりました。あなたの御許に私たちを招いてくださり、いつも「我に来よ」と呼びかけてくださいますことを感謝いたします。

 ともすれば疲れやすく私たちの心もしぼんでしまい易いものでありますが、主は疲れた者を起こし、しぼんだ心に力を与えて励ましてくださる御方であることを感謝いたします。そうしてこの朝、私たちをもう一度あなたの生命の糧に至らせようとしてここに招いてくださったこと、今あなたが御言葉を開いて私たちの歩むべき道を指し示し、光を与えてくださる事をありがとうございます。どうか主よ、このひとときをあなたが聖別し、聖霊さまが豊かに働いてくださる時としてください。そして一人ひとりが今日でなければならない必要な新たな生命の御言葉を得ることができますように、あなたの御言葉を開いてください。私たちの心を御前に開け放し、あなたを待ち望みます。そしてどうか一人ひとりをあなたが導き引き上げまた満たしそして強め、あなたの子としてもう一度立ち上がる事が出来ますように導いてください。

感謝をし、主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

 私たちの人生をそれぞれ振り返ってみますと、「あの時、あの人が、あの一言を言ってくれたが故に、今の自分がある」、というようなそういう「あの一言」という言葉に私たちの人生のどこかで出会ったのではないかと思います。私自身にもそういう「あの一言」というのがあります。それは二十歳の時でありますが、アメリカに留学した年の事であります。アイダホ州にある田舎の小さなクリスチャンの大学に留学しました。 Continue Reading »

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なぜ東方の博士たちが?

マタイの福音書2:1-12 (新改訳)

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 一言お祈りいたしましょう

 恵みとご愛に富みたもう天の父なる神様、

あなたの計り知れないご計画によって、あなたの創造されたこの世界にあなたはみ子をお遣わしになり、この世界にあなたの救いをもたらしてくださいました。今日、私たちはみ子主イエス・キリストがお生まれになったことを覚えながらここであなたのみ前に礼拝を捧げています。イエス様があのベツレヘムの家畜小屋で、おそらくは粗末な場所であったと思われますが、ある人々は洞窟であったとも言われておりますけれども、そのような中で人類の救い主がお生まれなられました。そして、そこからイエス様はやがてはあなたの福音を述べ伝え、そして、その身をもってあなたの救いを成就し、十字架の苦しみを受けられ復活し、またあなたに従って行く人々の上に聖霊を注いでくださいました。今から約二千年前の出来事でありますが、その事が私たちのこの世界のあり方を根底から変えてくださいました。いま私たちは遠くイスラエルから離れているこの日本で、こうしてあなたを信じる信仰をお与えくださっているという事、そして、またイエス・キリストを救い主としてお迎えし、日々生ける主と共に生かされていること、また、あなたのみ言葉が私たちの生命の糧であること、そのような者とされていることを心より感謝いたします。

闇の世界に光を照らしてくださった、とみ言葉にありましたけれども、本当にこの世界はさまざまな闇が支配しております。そんな中にイエス・キリストが神様の愛を届けてくださり、一人ひとりの心に光を灯してくださる事を心より感謝いたします。今も私たちを取り囲むこの世界はいたる所に闇を見ています。一人ぼっちで孤独の中にいる人たち、またいろんな事で行き詰って出口を見いだせずにいる人たち、愛する者を失くして寂しさの中に置かれている人たち、いろんな悩みの中でもがき苦しんでいる一人ひとり、そしてまた肉体的な身体的な重荷を背負って歩んでいる一人ひとり、そのような一人ひとりをあなたは御目にとめて、イエス・キリストを通してこのクリスマスの時期に、あなたのご愛を届けようとしてらっしゃるということを感謝いたします。

 ここに教会が建てられ、主イエス・キリストのその神の贈り物を地域の方々に届けようとして、私たちが立てられていることを心から感謝いたします。どうか、主よこのクリスマスの時期に私たちの周りの孤独な人たちや、また寂しさの中にある人たちに、少しでも神様のご愛を届けることが出来ますように、私たちを聖めて用いてください。そしてイエス様が来られたことを共に喜ぶ事が出来ますように導いてください。今日あなたのみ言葉を通して私たち一人ひとりに主のみ言葉を与えてください。

 待ち望みつつ主イエス・キリストのみ名によって感謝してお祈りします。 アーメン。

 何年か前に高知県民文化ホールで開催されました高知市民クリスマスに参加いたしました。北海道の家庭学校という施設の校長先生をされていた谷昌恒先生という方が講師として講演をされました。大変素晴らしい講演の内容で、その後谷先生の書かれた本を次々と読むようになっていきました。大変多くの事を教えられてきました。ただ一つその講演の中で気にかかることを谷先生がおっしゃいました。それは何かと言いますと、「クリスマスの出来事であるイエス様の誕生の事が福音書の中にいくつも書かれているけれども、その中に博士たちが出て来るのはどうもクリスマスにふさわしくないのではないか」というものです。「イエス・キリストの誕生はあの名もない羊飼いたちとか、粗末な家畜小屋とか、本当に人間の一番低い所にいらっしゃった、そういうのが本当のクリスマスだと思うんだけど、博士たちというのは立派な服を着て、立派なラクダに乗って黄金・乳香・没薬をもって来るような人たちです。どうも立派すぎてイエス様の誕生には似つかわしくないのではないか」と思っているとおっしゃいました。それを聞いて私はその時から博士たちの事が気になっていたのであります。なぜイエス様の誕生にまつわる記事の中に東方の博士たちの事が書かれたのだろうか、そこに何の意味があるのだろうか、と考えるようになっていました。 Continue Reading »

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いのちの冠

ヤコブ書1:12-18 (新改訳)

 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに。真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 一言お祈りいたします。

 すべての恵みの源であられる天の父なる神様、こうしてよく晴れ渡った秋晴れのもと、み堂に集まることのできる恵みに感謝しいたします。季節から季節へとその時そのときに、あなたは大きなご計画の中で、地球上に住むすべての生き物に恵みと憐れみを注ぎ、生かし、喜びを与え、希望を与え、またあなたの光の温かさを受けて生きることの出来る営みを与えてくださっていることを感謝いたします。私たちもまたこうして地球上のこの所で、あなたが備えてくださったあなたの宮で、一人ひとりが招かれて恵みのみ座に近づけられていることを心から感謝いたします。あなたはいつもどんな時にもあの放蕩息子の父親のように、私たちがあなたのみ許に帰って来ることを待ち望み、今か今かと待っていてくださる天の父なる神であられることを感謝いたします。私たちが身も心も疲れはてボロボロになって帰ってきても、あなたは両手で私たちを抱きかかえ喜んでくださる主であることを心より感謝いたします。

 今日もあなたは「我に来よ。」と招いてくださったそのご愛に私たちもまた勇気を与えられて、あなたのみ前にこうして侍っております。どうか大胆に恵みのみ座に近づく者としてください。あなたが今日、天からマナを降らせ一人ひとりの魂に生命を与えようとしておられるそのみ言葉を、どうか受け止めることが出来ますように。理解することが出来るように、聖霊さま、どうぞ豊かにお働きください。そして私たちの心も体も精神も強めてくださいますように。新しい生命と希望と光を見いだすことが出来ますように。また道筋を見いだして行くことが出来ますように。主よ、どうかみ業をなさってください。今日共に礼拝に与ることの出来なかった兄弟姉妹たちの上にも、そしてまたCDを聞いておられる方々や共にこうして礼拝に与っておられる方々の上にも、どうか等しく主の恵みがありますように。この愚かなしもべを聖めてみ言葉の奉仕にお用いください。

感謝して、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。 アーメン。

 何年か前に礼拝が終わって交わりの時に、うちの息子がいきなり質問があると言ってきました。主の祈りの中の「我らを試みに会わせず、悪より救いいだしたまえ」という一節の「我らを試みに会わせず」という祈りはあれでいいの?と訊くであります。“聖書では、神様は私たちをいろんな試練や試みに会わせて、私たちを訓練し成長させてくれていると教えていると思うんだけど、どうして試みにあわせないようにって祈るの?”と、こう言うのです。大体の質問には答えられる自信があったのですが、これは意外と難問でして、「あれっ、そう言えばこれは難しい質問だな。」と内心思いました。父親であり牧師でもある訳ですから、「ここできちっと答えないと父親としての株がだいぶ下がるな」と思いまして、頑張ったのであります。 Continue Reading »

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主の慰め

イザヤ書40:1-11 (新改訳)

 「慰めよ。慰めよ。私の民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムにやさしく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた。」と。荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。「呼ばわれ。」という者の声がする。私は「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よあなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 一言お祈りいたします。

恵み深い天の父なる神様。梅雨空の続く今日この頃、与えられたこの聖日の朝、私たちを遠くから近くからお招き下さり、あなたの御前にこうして祈り、あなたの御顔の光を求めるために集められた事を感謝いたします。あなたがいつも一人ひとりを御目に留めて、その人生と生活を導いてくだり、それぞれがあなたの恵みに満たされて、あなたの御姿に似せて作り変えられる聖霊のみ業の中に置いていてくださることを心から感謝いたします。過去一週間、一人ひとり色んな所を通ってまいりましたが、あなたの大いなる御愛と慈しみが絶えず注がれていたことを感謝いたします。またあなたの御前に罪を犯し、過ちを犯したことをどうぞお赦しください。主の贖いによって赦されていることを感謝してお受けいたします。そして、また今日も私たちを御言葉と聖霊によって新しく作り変えて下さいますように。あなたの御心に沿うしもべとして強め励まし満たし用いてくださいますように。み言葉が今日開かれて、どうぞ私たちの魂に打ち込まれる事が出来ますように。いっさいを御手にお委ねし、全てを感謝して主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。 アーメン。

 ある所に九歳になる男の子がいました。その子のお母さんがその子にピアノを教えたいと思って、いろいろレッスンを受けさせたり練習させたりするわけですが、 その男の子はなかなか練習をしよとしません。すぐに練習に飽きてしまいます。お母さんは手を変え品を変えしながら何とかピアノを習わせようとしていました。ある時、その町に有名なピアニストが来てコンサートを開くということをお母さんが聞きつけ、早速チケットを二枚買いました。 Continue Reading »

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まして天の父は

ルカによる福音書 11章1~13節(新共同訳)

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈る時には、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。そのように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 ひとことお祈りいたしましょう。

 私たちに命を与え、生かし、育み、今日までその御翼の蔭に私たちをかくまい、御自身の瞳のように私たちを守り、イエス・キリストの福音の生命にあずからせ、私たちを愛し続けてくださる天の父なる神様、一人ひとりに御目を注ぎ、永遠に変わることのない愛をもって愛していてくださる私たちの主よ、今朝も私たちをあなたの生命の泉へと招いてくださり、「来て、これを飲め」と招いてくださることを心から感謝いたします。「私の与えるものをただで受けよ」と提供してくださり、私たちが大胆に、謙遜に、あなたの御前に出て、「主よ、生命をください。あなたの水をください。」と、幼な子のように求める時、あなたは豊かにあなたの生命を注ぎ、慰め、励まし、一人ひとりに必要な、満ち満ちた糧を与えてくださることを心から感謝いたします。あなたは一人ひとりに目を向けて、誰一人としてあなたがご覧になっていない人はいないということを心から感謝いたします。そしてあなたが求めていらっしゃることは、私たちが心を開き、信仰の手をさしのべ、「父よ、私の中にあなたの霊を注いでください。父よ、私を主イエスのごとく造り変えてください。父よ、私たちの心に聖霊を注いでください。」と純粋にひたむきに求めることであり、そのように求める者に、あなたは必ず応えてくださることを感謝いたします。今朝、主よ、あなたはこの教会を愛し、一人ひとりにつながるそのご家族をも、そして友人をも豊かに愛し、一人ひとりを祝福の源として、お立てくださっていますことを感謝します。 今朝も御言葉を祝して、今日でなければならないあなたの御旨を示してください。一人ひとりのなくてはならない霊の糧とならしめてくださいますように。愚かな僕を清め、あなたの御栄のためにお用いください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 今日の聖書の箇所は、祈りについてイエス様が弟子たちに教えられた箇所であります。イエス様の日々の生活は、祈りの生活であったといってもいいと思います。ルカによる福音書を今まで見てまいりましたが、“イエス様が祈っておられた”と記されているところが何度も出てまいりました。イエス様が洗礼を受けられた時、“祈っておられると聖霊が鳩のように降ってきた”とあります。イエス様が十二弟子を選ばれる時、“夜を徹して祈られた”とあります。イエス様が、これからご自分が受けるであろうお苦しみを予告された時も、祈りの中でそれを神様から受け止められました。そしてあの山の上で、その姿が変わるという体験をされた時も、イエス様は祈っておられました。ルカによる福音書で最初から最後まで一貫して記されていますことは、イエス・キリストとは、祈りの人であったということであります。そんなイエス様の祈っている姿をしばしば目にしていた弟子たちは、ある時イエス様のところに来て、「先生、祈りを教えてください」と頼んだのであります。その弟子たちの求めに応じて教えてくれたのが、私たちの良く知っているいわゆる“主の祈り”と呼ばれるものであります。この祈りはイエス様がその時、ふと思いついて弟子たちに教えられたというものではなくて、イエス様が常日頃、この祈りを祈っておられたと思われる祈りであります。この祈りの中には、イエス様がいつも一番大切にされていた思いが凝縮されていると思います。私たちが主の祈りを祈る時、私たちもまたイエス様の思いにあずかるようになっていくのであります。イエス様というお方が何を考え、何を日頃思い、何を目指して、何を成そうとしていらっしゃったか、そして今も生けるキリストが何を願い、何をされようとしているか、ということが主の祈りを私たちが祈ることによって、明らかになってくると思われます。この祈りの中にこそ、イエス様が命をかけて達成しようとされていたその御心が込められています。その一つひとつの言葉は、まことに簡潔でありますが、そこにイエス様の教え、また行われたことのすべてが、最もはっきりと、そして最も豊かな形で表現されております。

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汝の敵を愛せよ

ルカによる福音書 6章27~38節(口語訳)

 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。

 

 ひとことお祈りいたしましょう。私たちの魂の羊飼いなる天の父なる神様。この新しい聖日の朝、私たちに呼掛け、遠くから近くから貴方の御前にこうして導いて下さった事を心から感謝いたします。貴方はいつも私たちに呼びかけてくださる御方であります。大胆に恵みの御座に近づきなさいと招いてくださる御方であります。誰でも重荷を負っている者は私のところに来なさいと招いてくださる主であります。一人一人それぞれの重荷があり、悩みがあり、苦しみがあります。そしてまた一人一人に勝利もあり、喜びもあります。貴方の御前に心を開き、罪を悔い改め、また感謝をし、貴方との交わりを今朝、得ることが出来ますことを感謝いたします。

神は光であって、神の内には暗きものは何もないとあります。そのような貴方に触れて私たちの心の、そして生活の暗闇を、貴方の光で満たしてくださいますように。そして私たちが暗闇ではなく、光の中を歩む光の子どもとしてくださいますように、どうか私たちの愚かさや足りなさや欠けを、そして罪を、すべて貴方の十字架の贖いをもって、お許しくださいますように。貴方に許された者、貴方が愛して下さる者、貴方が御目にとめて下さる者として、今朝もう一度立ち上がり貴方の内なる力によって生きる希望を、命を与えられる事を感謝いたします。今朝も貴方の御言葉を開いてください。そして光を放ってください。私たち一人一人のために、そして私たちが貴方を愛し、さらに深く貴方を愛していくことが出来ますように、思い煩いの多い私たちでありますが、どうかいつも心を貴方に向けて、私たちが生かされている意味をしっかりととらえる事ができますように導いて下さい。

 どうか愚かなしもべを今朝のご奉仕のために清めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 「汝の敵を愛せよ」、とても難しいテーマを今朝与えられております。この日曜日の礼拝ではルカによる福音書を私どもは見ていますが、このルカによる福音書の六章の二十節から、その章の最後までのところにイエス様が語られた説教が記されております。

 これはイエス・キリストがその弟子となっている人たちに対して、またこれからキリストの弟子になろうとしている人たちに対して語られた説教であると考えていいと思います。キリストの弟子になるということはどういう事なのだろうか、クリスチャンとはどういう人たちなのだろうか、そういった事がはっきりと示されている箇所であります。 Continue Reading »

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種まきのたとえ

ルカによる福音書 8章4~15節(新共同訳)

 大勢の群集が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と大声で言われた。

 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 すべての恵みの源なる天の父なる神様。今朝、もう一度私たちをあなたが御目に留め、見えないあなたの意図をもって私たちを導き、“我に子よ”と御声をかけてくださいましてありがとうございます。あなたの命の泉へと私たちを導き、疲れた身体を癒し、心に新たなあなたからの命の水をいただくことのできる幸いを感謝いたします。

 私たちの手足を強め、あなたの御顔の光を仰ぎ、あなたと共に生きることの喜びをかみしめながら、新たな日を始められる今日のこの礼拝を心から感謝いたします。一人ひとり一週間の戦いを戦い終えました。多くの失敗があり、また勝利もありました。また、数々の思いがけないあなたからの折りに叶った助けをいただき、私たちはいつもあなたの見えざる御手のなかで守られ励まされてまいりました。あなたの御手に包まれていることをおぼえて感謝をいたします。不信仰な私どもは、しばしばあなたが目に見えないからといって、自らの不安や恐れや心配のなかに身を沈めそうになりますけれども、こうしてもう一度御言葉によって励ましてくださり、周りの風や嵐や、また私たちの下にあるこの水に恐れるのではなく、私たちの目の前にいてくださる生けるキリストに目を向けよ、とあなたが聖霊によって教えてくださいまして、感謝をいたします。“なぜ恐れるのか、不信仰な者よ”と主は弟子たちに語られましたが、どうか私たちが、信仰と不信仰との狭間にあって何度も失敗を犯しながらも、なお私たちの信仰の創始者であり完成者である主イエスを見つめながら、一日一日を歩んでいくものとさせてくださいますように。

 私たちに分からない答えがいくつもございます。生きていくということは、多くの悩みの中にある、ということを主は語られました。そのような状況の中にあって、あなたは私たちに“雄々しくあれ、恐れるな、おののくな。私はあなたと共にいると言ったではないか”といつも語りかけてくださることを感謝いたします。“私はあなたの主、わたしはあなたを助け、あなたを守り、あなたを導く”との真実な御言葉に感謝いたします。私たちの魂は生き返り、私たちの手足は強められ、もう一度私たちを小鹿のように飛び跳ねることができるようにしてくださる、あなたの大いなる恵みと麗しさを感謝いたします。

 今朝も御言葉をひも解き、主がお語りください。今日でなければならないあなたの御言葉を私たちの魂に語りかけ、留めさせてくださいますように。愚かな僕をどうか清めてご用にもちいてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 さて、今日の聖書の箇所は「種まきのたとえ」と普通言われている箇所であります。聖書の中にはたくさんのたとえが出てまいります。「からし種のたとえ」といった自然界の様々なものを用いたものや、あるいは「放蕩息子のたとえ」という、日常生活の素材をもとにして作られたものもございます。そういったたとえの多くは決して難しいものではなく、誰にでも分かる、また子どもが聞いても分かりやすいものでありますが、一体そういうたとえが何を意味しているのかということになりますと、そう簡単には分からないというのがこのたとえだと思います。

 今日の箇所にあります「種まきのたとえ」、これは当時の人々の生活が反映されている光景であります。誰が見てもそれはなじみのある事柄であったと思われます。ごく平凡な日常生活のひとこまであり、そして自然界の出来事であります。あのミレーが描いた『種まく人』という素晴らしい絵は、ここを題材にして描かれたものと思われますが、なぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。 Continue Reading »

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一羽の雀さえ

ルカによる福音書 11:14~25(新共同訳)

 とかくするうちに、数え切れないほどの群集が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 恵みと慈愛に富みたもう天の父なる神様。新しい聖日の朝をこうして静かに与えてくださり、一週間のそれぞれの旅路を終えて、いろいろな重荷を背負い、あなたの御前にもう一度帰ってくることが出来ましたことを感謝いたします。「誰でも重荷を負うて苦労している者は私のところに来なさい」と、招いていて下さる主は、今朝も私たち一人ひとりの名を呼んで、私のところに来て憩いを得よ、と仰せ下さいますから、感謝をいたします。私たちは、人間的な思いや知恵や計り事ではどうすることも出来ないこの世の数々の悩みや試練、痛手の中に生きておりますが、主よ、あなたの御許に来る時にのみ、私たちは真の力を得、生命を得、あなたの泉から生命の水をくみ取ることが出来ますから感謝をいたします。今朝も私たちはいろいろの弱さを担って、御前に来ております。ある者は身体的な痛手を、弱さを、またある者は心の弱さを、日々の疲れを覚えて御前に来ております。あなたはそれをすべてご存じであり、あなたは創造の主であり、全てを新しくしてくださる御方であることを、主よ、感謝いたします。試練と同時に逃れの道をも備えたもう主が、私たちを決して耐える事のできない試練には遭わせないという真実な御方であることを、今朝も信仰告白いたします。そして私たちの理解出来ない事柄の中に、またある時は私たちが深く失望し、あるいは絶望するような状況の中にあっても、実は、あなたが背後にあって働いておられるという、そのことに私たちの心の目が開かれていきますように、私たちの信仰をどうか引き上げてくださいますようにお願いいたします。今朝も神様、この群れに属するお一人おひとりを、あなたはねんごろに顧み、その重荷をあなたが担っていてくださることを感謝いたします。「あなたの思い煩いを主にゆだねよ、主があなたがたのことを愛していてくださる」と御言葉にございます。お一人おひとりをあなたは覚えてくださり、あの羊飼いがその羊をいたわるごとく、導くごとく、今朝、あなたは私たち一人ひとりの置かれている状況をご存じであります。主よ、歩むべき私たちの道に光を与えてください。そしていつも心へりくだり、あなたからの力によって生かされて、強く生かしめてくださいますように。

 今朝もあなたの御言葉によって、私たちが生命の言葉に触れる事が出来ますように。愚かな僕を清めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 この季節は自然が美しく、新緑の候といわれます。私たちの目がこの自然によって癒され、心まで癒されるような、そんな美しい季節を迎えました。

 イエス様は私たちに自然を通して、数々の大切な真理を教えて下さっています。「空の鳥をみよ。野の花をみよ。」とイエス様は語りかけられまました。私たちが生きていく上で、本当に基本的な、無くてはならない真理を、そのような優しい言葉をもって私たちに教えてくださっています。イエス様のお育ちになったガリラヤ地方(イスラエルの北方にありますが)、そこには数々の美しい花々が咲き乱れているという事であります。この季節は特にガリラヤ湖の付近には、のどかな美しさがあると言われます。赤や黄色、白や紫のさまざまな花が、どこまでも澄んだ青空のもと、緑の草の上に咲き乱れ、そして静かな鏡のようなガリラヤ湖には数羽の鳥が白い腹をみせながら水面を飛び交っているということです。それはちょうど箱根の芦ノ湖に、奈良の若草山をいくつも並べたようなやわらかな美しさだといわれております。なだらかな曲線美を誇る日本の風景の中にもちょっと比べる物がないほど、美しい光景だ、とそこに行かれた方はよく言われます。

 そのような柔らかい自然の美しさの中でお育ちになったイエス様は、私たち日本人が自然を愛し、自然に深い親しみを覚える以上に、自然と共に生きておられたのだろうと思われます。ですからイエス様の教えの中には、自然からの観察を用いて、生きることの真理を述べておられるところが数多くみられます。今日の聖書の箇所、ルカによる福音書12章の中にもその事を窺い知ることができます。6節と7節では空の鳥、特に雀を例にあげております。また24節ではカラスのことを例にあげております。そして27節では野の花のことを考えてみなさいと言われます。自然の中の生きとし生ける物すべてに目を留めよ、とイエス様は言われるのであります。 Continue Reading »

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今日という日に

ルカによる福音書 41430節(口語訳)

 

 それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。

 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された。

 「主の御霊がわたしに宿っている。

 貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために。

 わたしを聖別してくださったからである。

 主はわたしをつかわして、

 囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、

 打ちひしがれている者に自由を得させ、

 主のめぐみの年を告げ知らせるのである。」

 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。

 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリアのナアマンだけがきよめられた」。会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落とそうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。

 

 ひとことお祈りいたしましょう。

 恵み深い天の父なる神様、アドベント第一聖日の朝、晴れわたった素晴らしい太陽のもと、こうして私たちを教会に導いて下さり、良く整えられた礼拝堂にあなたを待ち望み、あなたの御名を讃美し、あなたの御顔の光を慕い求めることができて心から感謝をいたします。

 あなたは私たちを呼び、私たちの名を呼んで導き、「あなたは私のもの、私はあなたと共にいる。」と今朝も語りかけて下さって心から感謝します。あなたの御前に出る資格のあるものは誰一人いません。私たちは資格がないからこそ招かれていることを心から感謝いたします。今朝、あなたはもう一度私たちに御自身を現し、御言葉によって私たちに光を与え、道を示し、勇気を与え、一人ひとりの心を強くし、また癒し、あなたの僕として潔められ、すべての良きわざに邁進する者にしようとして、この礼拝を設けて下さいまして感謝をいたします。

今朝もどうか弱っている膝を強め、萎えた手をあなたが癒して、一人ひとりをもう一度新しく聖霊に満たし、私たちを新しくつくり変えて下さい。この寒さの中で風邪を引いている者や、弱っている者、入院している者、自宅で臥せっている者、一人ひとりをあなたはご存知でありますから、どうぞ癒しの御手をもってお癒し下さい。

また主よ。この降誕節、本当にあなたがこの世に来て下さったことを覚えて感謝しつつ、どのような時にもその事実を覚えて、心のうちにあなたの光を宿すものとさせて下さい。

今朝もこの愚かな僕をどうぞ潔めて、あなたのご用にお用い下さいますように。主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。 アーメン

 

 さて、今朝、司会者に読んでいただきました聖書の個所は、ルカの福音書の4章の14節からであります。いよいよイエス様の公の宣教がここから始まってまいります。このルカの福音書では、イエス・キリストの公の宣教が、故郷のナザレの村に帰っていくところから始まっております。このナザレでの宣教の記事は、他の福音書、マタイやマルコの福音書では、ずっと後になって出てくるのでありますが、ルカだけはそれをキリストの宣教の一番最初のところにもって来ております。イエス・キリストが具体的にどのような働きをなされたのかということを記しているのは、ここが最初であります。

 どうしてこの福音書を書いたルカが、ナザレでの宣教を最初にもってきたかということについては、明らかにひとつの意図がうかがえるのであります。それはこのナザレでの出来事がイエス・キリストというお方がどのようなお方であり、何をなさるお方であり、またキリストに続く後のクリスチャンたちが、どのような人々であり、何を使命とする人々であるか、そしてまたイエス・キリスト、そしてその後に続くクリスチャンたちが、他の人々からどのような反応を受けることになるかということを明らかにしているのであります。

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