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Archive for the 'オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)' Category

再生の力   (10月6日)

『神が・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、』ガラテヤ1:15,16

 イエス・キリストが私を再生しようとされるとき、キリストはいかなる問題に直面されるのだろうか。私は自分でどうすることもできなかった罪の遺産を受け継いでいる。つまり、私は聖くないし、将来聖くなる見通しもない。しかも、もしイエス・キリストのできることが、「聖くなりなさい」と私に告げることだけであるなら、その教えはただ絶望を植え付けるだけである。しかし、もしキリストが「再生させるお方」、つまりご自身の聖なる性質を私の中に入れることのできるお方であるなら、「聖くあらねばならない」と言われる意図を理解できるようになる。「贖い」とはイエス・キリストがご自身の中にある性質をいかなる人にも入れることができることを意味するのであり、イエスが与えるすべての基準はその性質に根ざしている。キリストの教えは私たちの中に入れてくださるご自身のいのちのためにある。私の側でなすべき道徳的行為とは、神がイエス・キリストの十字架でなされた罪に対する審判に同意することである。

 人が霊的渇きに打たれるとき、神がその人のたましいの中に聖霊を注ぎ、「キリストがあなたがたの中に形造られるまで」その人のたましいを神の御子のみ霊によって奮い立たす、というのが再生に関する新約聖書の教えである。私が全く新しいいのちを生きることができるために神が私の中に新しい性質を入れることができるということが、「贖い」という心の奇跡である。私が飢え渇きでどうしょうもなくなり、自分の限界を知るようになると、「あなたは幸いです」とイエスが言われる。しかし、私はそこに行きつかねばならない。私がその必要性を意識しなくては、神が道徳的に責任ある人としての私の中にイエス・キリストのご性質を入れることはできない。

 ちょうど一人の人を通して人間に罪の性質が入ったように、別な「人」(キリスト)を通して聖霊が人間の中に入られた。そういう訳で、「贖い」とは私が罪の遺産から救い出され、イエス・キリストを通して汚れなき遺産、つまり聖霊を受けることができるという意味である。

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すべてを捨てて「行け」 (9月27日)

『主よ、私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』ルカ9:57

 主は人間の心の中になにがあるかご存じであったので、この人に対する主の対応は深い失望をもたらすものであった。私たちなら、「この人をせっかく弟子にできるチャンスであったのに!」と言うかもしれない。せっかくのチャンスに冷たい北風で彼を凍えさせ、「失望させて去らせるとは!」なんともったいない、と。しかし主のために釈明をする必要は全くない。主のみことばは完膚なきまでに人を傷つける。イエス・キリストは神の奉仕をする人間を究極的には滅ぼすことになるようなことに対してまるで優しさを持ち合わせていない。主のお答えはその時の気分から出ているものではなく、人間の中になにがあるかをご存じの上で語られているのである。もし神のみ霊があなたの心を傷つけるような主のみ言葉をもたらしているならば、神があなたから取り去ってしまいたい何かがあると考えてまちがいない。

58節。ここにあるみ言葉は、楽しいからイエス・キリストに仕えているのだという心を打ち砕く。厳しい主の拒絶の後に残るものは、主と私と、そして失われた希望である。「多くの人がついて来ようが来まいが、あなたの道しるべの星は私との関係であらねばならない。そして私には枕する所もないのだ。」

59節。この人はイエスを失望させたくはなかったし、父親の気持ちを傷つけたくもなかった。私たちはイエス・キリストへの忠誠の代わりに身内への不安定な忠誠を優先し、イエスを最後に置く。忠誠心が衝突する時は、なにがあってもイエス・キリストに従いなさい。

61節。「はい、主よ。でも・・・」という人は心は熱く備えられているが、決して出て行こうとはしない。この人には一つか二つ心にかかる事があったにすぎない。しかしイエス・キリストの厳しい召命においては人に別れを言う余裕はない。なぜならよく使われる意味での別れとはキリスト教的ではなく、異教的なものだから。ひとたび神の召命が臨みはじめたら、歩きだせ。そして決して立ち止まってはならない。

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試みに何の意味があるのか?  (9月17日)

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。』1コリント10:13

  試みという言葉は地に落ちてしまい、私たちはこの言葉を間違って使う傾向がある。試みとは罪ではなく、私たちが人間であるかぎり必ず出合うものである。試みに合わないという人は軽蔑にも値しない。しかし、多くの人が悩む必要のない試みで悩んでいる。なぜなら、別な種類の試みに直面するであろうより高いレベルへと、神によって引き上げてもらうことを拒んでいる、という単純な理由からである。

 人の内側の性質、つまりその人のパーソナリティが、外面的に何によって試みを受けるかを決める。試みは試みを受ける人の性質に符合しており、その性質の可能性を現わしている。だれしも自らの試みの場を持っており、その人の主な性質に沿って試みが来る。

 試みとは私の最高の目標を成就するための近道が暗示されるということである。それは私が悪しきことだと知っていることではなく、善きことだと知っていることに向けて来る。試みは私をしばらくの間完全に途方に暮れさせる。その事が善いことなのか悪しき事なのか分からなくさせる。試みに負けるとは欲望を神格化することであり、それまで罪を犯さなかったのは臆病さのためであったことが判明する。

 試みからは逃れられるものではなく、充実した生活に不可欠なものである。他のだれも通った事がないような試みに自分が試されているなどと考えてはいけない。あなたが経験している事は人類が共通して受け継いでいるものであり、だれも経験したことのない類のものではない。神は私たちを試みから救い出してくれるのではなく、試みのただ中で御手を差しのばしてくれるのだ(ヘブル2:18)。

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主のもの!  (9月4日)

『彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしにくださいました。』ヨハネ17:6

  「あなたはあなた自身のものではない。」という認識を聖霊によってその心に形成された人が宣教者である。「わたしは私自身のものではない。」と言えることは、霊的気高さにおいて偉大な地点に到達したことを意味している。別なお方を最優先してその方に自分を意図的にささげること、それが現実の揺れ動く日々の中における霊的いのちの本質である。その別なお方とはイエス・キリストである。聖霊は私が主と一つとなるためにイエスのご性質を私に詳しく説明してくださる。それは私が見世物となって出て行くためではない。私たちの主は、そのなしたわざを根拠として弟子を遣わされたことは一度もない。弟子たちが聖霊の力によってイエスが誰であるか理解したのはイエスの復活後であり、その時はじめて弟子たちに「行け」と言われたのである。

 「わたしのもとに来て、・・・憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」とイエスは言われている。善良で潔白な人になれないというのではない。イエスが「わたしのもの」という言葉をその人の心に書くことができないという意味である。主がここで述べられる人々との関係は主と張り合うような関係かもしれない。私は母や妻やあるいは自分自身のものでありたいのかもしれない。もしそうであるなら、イエスの弟子となる事はできないと主は言われる。これは私が救われないかもしれないというのではない。私が「主のもの」になれないという意味である。

 主は弟子をご自身のものにされる。主がその人の責任を取られる。「あなたがたはわたしの証人となります。」私たちが受ける霊は私たちを主にとって全き喜びとする霊であって、主のために何かをする霊というのではない。私は主のもの、主は私を通してご自身のご計画を行っておられる、という意識が宣教者の秘訣である。

 完全に主のものとなれ。

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友情の豊かさ  (8月25日)

『わたしはあなたがたを友と呼びました。』ヨハネ15:15

  すべての細かい点において自己放棄をするまでは自己犠牲の喜びを知ることは決してない。最も難しい事は自己を明け渡すということである。「もし・・・ならするのだが!」と条件をつけたり、「やれやれ、神に自分の人生をささげないといけないんだろうな。」といった思いでは、自己犠牲の喜びは全く見出されない。

 私たちが自己を放棄するやいなら、聖霊がイエスの喜びの秘密を与えてくれる。自己犠牲の最終的目標は私たちの「友」のためにいのちを投げ出すことである。聖霊が心に入ると、イエスのためにいのちを捨てることが強い願いとなる。そして犠牲という思いは全く浮かぶことがない。なぜなら、聖霊の情熱が犠牲であるから。

 自己犠牲の人生においては私たちの主が模範である。「わが神。あなたのみこころを行うことがわたしの喜びです。」と主は言われる。イエスはあふれんばかりの喜びをもって自らを犠牲にされた。イエス・キリストに対して全き服従をもって自分を放棄したことがあるだろうか。イエス・キリストが道しるべの星となっていないなら、犠牲を払っても意味がない。しかしイエスにしっかりと目をとめて犠牲を払うと、ゆっくりと着実に人格形成に影響を受けていることが明らかとなる。

 生来の好みによってあなたの愛の歩みが妨げられないように気をつけなさい。人間として自然な愛を台無しにする最も残酷な方法は、生来の好みによって形成された軽蔑によるものである。聖徒の好みは主イエスである。神への愛は感傷的なものでない。聖徒にとっては神が愛するように愛することは最も実際的なことであるから。

 「わたしはあなたがたを友と呼びました。」それは私たちの内に創造された新しいいのちに根ざす友情である。その新しいいのちには古いいのちへの愛着はなく、神のいのちへの愛着だけがある。言葉にできないほど謙遜で、しみ一つなく純粋な、そして神に対して完全に自己を捧げきった友情である。

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自意識   (8月19日)

『私のところに来なさい。』マタイ11:28

  キリスト・イエスにあって充実したいのちを生きることが神のみこころである。しかしそのいのちが外部から攻撃を受ける時がある。すると無くなっていたと思っていた内省の世界に転がり落ちる。神にあるいのちの充実感を損ねる最初のものが自意識である。そして自意識は絶えず葛藤をもたらす。自意識が罪と言うのではない。それは神経質な性質や、あるいは新しい環境に突然出くわしたことによるのかもしれない。私たちが神にあって完全に満ち満ちている以下のことは決して神のみこころではない。主にある平安を乱すものは即座に修復されなければならない。それを無視することによって修復できるものではなく、イエス・キリストのところに来ることによって修復されるのである。主のところに来てキリストを意識する心が生まれることを願うなら、私たちが主にとどまることを学ぶまで、主はいつもその願いに応えてくださる。

 キリストにあるあなたのいのちが決して裂かれたままにしておかず、そのことに直視するのだ。どこからほころびたのか、友人かあるいは環境の影響によってあなたのいのちが裂かれたのか、主と一つであるあなたのいのちを割いて自分を個別の者として見させているものは何か、見極めなさい。霊的に正しい状態にあること以上に重要な事はない。偉大な解決法は単純なものである。「私のところに来なさい。」である。私たちの知的、道徳的、霊的な本質の深さはこの言葉によって試される。私たちがイエスのところに来るよりも議論をしようとするのは、それだけ私たちが本物でないことを示している。

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幻滅という鍛錬 (7月30日)

『イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスは…人のうちにあるものを知っておられたので…。』ヨハネ2:24-25

  幻滅を経験すれば人生において間違った判断をしないようになる。しかし、幻滅したことによって「もう騙されないぞ」という姿勢は、他人を測る上で冷笑的になり、思いやりのない厳しさを持つ者になる可能性がある。一方、神から来る幻滅を抱くなら私たちは人をありのままで見られるようになる。それでいて冷笑はなく、人を言葉のとげで刺すこともない。人生における苦痛の多くは、思い違いで悩むことから起こる。私たちは互いの「ありのまま」を信頼しているのではない。互いに対する自らの「想像」を信頼しているのである。私たちの想像に従って、すべては快く好ましいものになることもあれば、意地悪く卑劣なものになったりもする。

 幻滅したくないという思いが人生のほとんどの苦しみの原因である。すなわち次のように気持ちが動いていく。もし私たちがある人を愛してはいるが、神を愛していないとすれば、私たちはその人から完璧さや正しさを要求するようになる。ところがそれを得られないと、私たちは残酷になり恨み深くなる。それはつまり人が私たちに与えることができないことを要求しているのである。人間の心の深淵にある苦痛のきわみを癒してくださるお方はお一人しかいない。それは主イエス・キリストである。主がすべての人間関係について明らかに非常に厳しくされているのは、主に対する忠実に根ざしていないすべての人間関係は悲惨な結果になることを主がご存じであるからだ。主は誰をも信頼されなかった。しかし、主は決して人を疑わず、決して辛辣でもなかった。主イエスが神に対して持つ確信、神の恵みが人に及ぼすものへの確信が完全であったので、主は誰に対しても望みを失う事はなかった。もし私たちが人間に信頼を置くならば、あらゆる人に失望する結果になるであろう。

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神の臨在により頼む (7月20日)

『主を待ち望む者は…歩いても疲れない。』イザヤ40:31

  歩くことに別にスリルはない。それは安定した生き方があるかどうかの試金石である。「歩いても疲れない」というのは人間の到達しうる最高の力である。「歩く」という言葉は聖書の中では生き方を表現している。『ヨハネは自分の方にイエスが歩いて来られるのを見て言った。「見よ、神の子羊。」』聖書の中には抽象的なものは何もない。常に生き生きとしていて具体的である。神は「霊的でありなさい」とは言われない。「私の前を歩みなさい」と言われる。

 私たちが肉体的にあるいは感情的に不健康な状態にある時は、常にスリルを求める。肉体的な領域ではこれは聖霊と似て非なるものへと導く。感情的領域ではこれは極端な愛着と道徳心の腐敗へと導く。そして霊的領域では、もし翼をかって昇りたいと言うようなスリルを持つ事に固執するなら、それは霊性の破壊をもたらすであろう。

 神の臨在の真実は私たちがどこにいるかで決まるのではなく、常に主を自分の前に置くという心の決断によるのである。私たちが神の臨在の真実により頼むことを否定する時に問題が起こるのである。「たとえ…とも、私たちは恐れない」という詩篇の記者が語る経験は、私たちがひとたび神の臨在の「真実」に基礎を置くなら私たちのものとなる。神の臨在の意識ではなく、その真実である。つまり、「ああ、神はずっとここにおられたのだ!」という真実である。

 危機的な時には導きを求めることも必要だが、いつも「おお、主よ、私をここへ、あそこへ導きたまえ」と祈る事は不必要であるはずだ。むろん神は導いてくださる!もし私たちの常識的決断が神のみこころにそぐわないものならば、神は圧力を加えて私たちの心を探られる。その時は私たちは静かにして神の臨在の導きを待たねばならない。

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霊的聖徒     (7月11日)

『私は、キリスト…を知り…』ピリピ3:10

  聖徒を動かしているものは自己実現ではなく、イエス・キリストを知りたいということである。霊的聖徒は状況を決して単なる偶然とは信じない。あるいは自分の生活を聖と俗に分けて考えることをしない。聖徒は自分の置かれた状況のすべてをイエス・キリストについて知るための手段だと見ている。

 聖徒には思い切った自己放棄がある。聖霊は私たちが生活のあらゆる局面においてイエス・キリストを見出してほしいと堅く決意しておられる。私たちがそうするまで聖霊は何度も何度も同じところへ私たちを連れ戻す。自己実現を優先すると仕事をあがめるようになる。これに対して聖徒は自らの仕事の中でイエス・キリストをあがめる。それが食べる事であれ、飲むことであれ、あるいは弟子たちの足を洗う事であれ、何であれ、私たちはその中で率先してイエス・キリストを見出さねばならない。私たちの具体的生活のあらゆる局面はイエスのご生涯の中に対応するものがある。私たちの主は召使のするような仕事の中にも「父」との関係を見出しておられた。「イエスは、…ご自分が父から来て父に行くことを知られ、…手ぬぐいを取って…弟子たちの足を洗い…始められた。」

 霊的聖徒の生きる目的は「キリストを知る」ことである。今日私のいるところでキリストを見出しているだろうか。もし見出していないならば、キリストを失望させていることになる。私が生きているのは自分を実現するためではなく、イエスを知るためである。クリスチャンの働きにおいてその動機はしばしば何かをしなければならない、私がしなければならない、という思いがある。それは決して霊的聖徒の生きる姿勢ではない。聖徒の生きる目的は置かれている状況のあらゆる局面でイエス・キリストを確実に見出すことである。

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神を計算に入れよ  (7月5日)

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』詩篇37篇5節

  神を計算に入れよ。

 神は私たちが神を計算に入れずに考えた事を壊すことを楽しまれているかのようである。私たちは神によって導かれたのではない状況に入ることがある。そして私たちは神を計算に入れていなかったことに突然気がつく。神が生きた存在として介入していなかったのである。心配から私たちを守ってくれる一つの事は、私たちのすべての計画の中に神を最も重要な要素として迎え入れることである。私たちの信仰においては、神を第一にすることが通例になっている。しかし私たちの実際生活の諸問題の中に神を第一として入れる事は見当はずれだと思う傾向がある。もし神に近づくのに私たちは日曜日の礼拝のムードを持たないといけないと考えるなら、私たちは神に近づくことは決してできない。私たちは普段のありのままで神に近づかねばならない。

 悪を計算に入れるな。

 「愛は…悪を思わない」とあるが、神は本当に私たちが悪を思わないようにと言われているのだろうか。愛は悪の実在に対して無知ではない。しかし愛は悪を計算に入れないのである。神から離れれば、私たちは悪を考えに入れる。私たちは悪を計算に入れ、その視点から私たちのすべての考えを組み立てるであろう。

 取り越し苦労を計算に入れるな。

 あなたがイエス・キリストを信頼しているのなら、取り越し苦労をしてはいけない。イエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われた。これは「…なりません」という命令である。神があなたの心を騒がせないようにしてくれるのではない。心を騒がせなくするために一日の内に何回も何回も心の向きを変えなさい。神を第一にして、神を計算に入れる事が習慣となるまで。

 

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