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Archive for the '未分類' Category

♰ ホームページ引っ越しのご案内 ♰

  • http://kaganoi.com

  • 2015年11月より、加賀野井教会のホームページが新しくなり、URLが下記に変わりました。
    新しいサイトでは、牧師の小窓や説教映像もご覧いただけるようになりました。

  • 今後は、新しいこちらのURL( http://kaganoi.com )にて更新を行って参りますので、こちらをブックマーク登録してご利用ください。

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自 我           (12月11日)

『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て…。』マタイ16:24

 自我は人格を包んでいる殻です。自我には角(かど)があり他から分離し孤立します。自我は子供の特徴であり、それでいいのです。しかし、もし自我を人格と取り違えると、私たちは孤立し続けるでしょう。自我という殻は人格を守るために神が造られた覆いのようなものです。やがて成長と共に人格が現れて神との交わりを持つようになるために、自我は無くなっていかねばなりません。欲望が愛のふりをするように、自我は人格のふりをします。神は人間の性質をご自身のためにお造りになりました。自我は人間の性質を卑しいものにします。
 自我の特徴はひとりよがりと自己主張です。私たちの霊性を妨げるものは、なによりも絶えざる自我の主張です。「信じることができない」と言うのは、自我が妨げているからです。自我は決して信じることができません。しかし人格は信じずにはいられないものです。聖霊が働かれている時に、注意して自分を観察してごらんなさい。聖霊はあなたを自我の限界にまで追い詰めます。そこであなたは聖霊を拒否するか、それとも自我の殻を破り人格が現れるように自我を明け渡すかのどちらかです。聖霊は常に一つのことに絞り込んで来られます(マタイ5:23-24を参照)。兄弟と和解しようとしない心が自我です。神はあなたと一つになることを願っておられます。しかし、あなたが自分の権利を明け渡そうとしない限り、神と一つになることはできません。「自分を捨て」というのは、自らのひとりよがりの権利を捨てるということです。そうすれば真のいのちが成長することができるようになります。

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加賀野井教会創立記念コンサート 9月25日(日)10時半より

Vocal & Piano Harmony

加賀野井教会創立38周年記念チャペルコンサート

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夢想に対する神の働きかけ (2月20日)

『立ちなさい。さあ、ここから行くのです。』ヨハネ14:31

 ある事を正しく行うために思いを巡らすということは間違っていない。しかし、行動すべき時になお逡巡することは間違っている。主イエスが弟子たちにすばらしい事がらを語られた後で、弟子たちにそれらの意味を黙想してきなさい、と主が言われる事を私たちは期待するかもしれない。しかし主イエスは無為に過ごすことを決して許されたことはない。私たちが神のみ意志を知るために神に近づくとき、いろいろと思い巡らすことは間違っていない。しかし、私たちがなすべきことを聞いた後で、なおその事について逡巡することで時を過ごす傾向にあるとすれば、それは間違っており、神の祝福は決してそこにはない。神の働きかけは常にこのようなぼんやりと夢想する態度に一撃を加える性質を持っている。私たちが「座るのでもなく立つのでもなく、行く」ことを命じる一撃である。
 もし私たちが神のみ前に静まってみ心を求めていて、神が「あなたがただけで、寂しい所へ行」きなさいと言われるなら、それは神のみ心を見出す為の黙想の時である。しかし、神がすでに語ったのであれば、そのことについて単に夢想するようなことのないように注意しなさい。神をあなたのあらゆる夢と喜びと楽しみの源として、神の言われた事に従って出て行きなさい。もしあなたが誰かを愛しているなら、その人のことをいつまでも座って夢想するということはしないであろう。その人のために出かけて行って何かをするはずである。イエス・キリストが私たちに求めておられる事もまさにそれである。神が語られた後もぼんやりと過ごすとすれば、それは私たちが神を信頼していないということの徴候である。

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人はなぜこれほどに無知であることに自信を持っているのだろうか(1月29日)

『主よ。あなたはどなたですか。』使徒26:15

「主は強い御手をもって…私にこう仰せられた」(イザヤ8:11)。主が語られるとき、人は逃れることはできない。主の御声は常に理解せざるをえない形で来る。神の御声が直接あなたに臨んだことがあるだろうか。もしあるなら、あなたが最も良く知っている言葉でそれが語られ、神の親密で強い主張を聞き間違えるということはない。あなたの耳を通してというのではなく、あなたを取り巻く状況を通して語られるのである。
 神は私たち自身の信念に対する強い自信を先ず壊さねばならない。「私のなすべきことはこれだ」と思う時、私たちの無知の深さを暴露し、私たちを圧倒する形で、突然神の御声が語られる。神に仕えるのに私たちが決めてかかったまさにそのやり方において、私たちは神についていかに無知であるかを現わしている。私たちはイエスの精神ではない精神でもってイエスに仕えようとする。私たちはイエスのために代弁しようとしてイエスを傷つけている。私たちは悪魔の精神でイエスの教えを押しつける。私たちの言葉は正しいかもしれない。しかし精神は悪魔の精神である。「あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです」(ルカ9:55異本)と主は言われた。イエスの精神を代弁するときの精神はコリント第一の手紙13章に述べられている。
 私は自分のやり方でイエスに仕えるという熱い意志の強固さで、実はイエスを迫害しているのではないだろうか。もし私が自分の義務を成し終えて、しかもそれを行うことでイエスを傷つけたとするならば、それは自分の義務ではなかったと考えてよい。なぜならその行いはへりくだった静かな心を養っていたのではなく、自己満足の思いを抱いていたのだから。私たちはどんなことでもやりたくない事が自分の義務だと思ってしまう!しかし「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)という主のお心にそれは近いものだろうか。

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救いは渇きを創造し、かつ満たす (12月17日)

『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。』1コリント2:14
 
 神の福音は福音への渇きを生み出す。「それでもなお私たちの福音におおいがかかっているとしたら、それは」ならず者に対して「おおいが掛っているのです」とパウロは言っただろうか。そうではない。「この世の神が不信者の思いをくらませ」ており、「滅びる人々」に対して言っている。ほとんどの人は自らが到達可能な範囲内の道徳心しか持ち合わせていない。福音に対する渇きを感じないのである。神がご自身を啓示されるまでは人の意識に上らない渇きを生み出すのは神である。「求めなさい。そうすれば与えられます」とイエスが言われたように、人が求めるまでは神は与えることができない。神が人の求めに応えないというのではなくて、神は「救い」を土台として物事を構成されたのである。求めることによって、それまでは存在しなかったものを神が創造する働きを始められるのである。「救い」の内なるリアリティとは絶えず生み出すということである。「救い」が神のいのちを私たちの心の中に生み出すように、そのいのちにつながる様々なものを創造するのである。渇きを呼び起こすお方以外に、渇きをいやすことのできるお方はいない。これが「救い」の意味である。神は創造し、かつ満たすのである。
 「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」私たちは自らの経験を語る。そして、人々は関心を持つ。しかし、渇きは呼び起こされない。ひとたびイエス・キリストが引き上げられるなら、神の御霊が神への渇きを意識する人を創造するのである。福音を宣べ伝える背後で、神の創造的な「救い」が人々の心の中で働くのである。人を救うのは決して個人的な信仰の証しではない。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

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浅いこと、深いこと  (11月22日)

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』1コリント10:31

 日常の浅く表面的な関心事は神によって授けられているものではないと考えてはいけない。深刻な事柄と同じように神によって授けられているものである。深みのない人間になりたくないと思うのは、あなたが神に対して献身しているからではない。浅はかな人間ではないぞということを他人に印象づけたいからである。そうすることはあなたが霊的にものしりぶった人であることの確かなしるしである。心の中に人を軽視する気持ちが生じないように注意しなさい。霊的高ぶりは常にこのような気持から出てくる。そして、他人があなたより浅いからという理由で、いたるところで他人を非難する人間になる。深みのある人間だというポーズを取らないようにせよ。神は「赤子」になられたのだから。
 浅いということは悪であるという印ではない。浅いからといって深いところがないわけでもない。海には岸辺もある。食べることとか飲むこと、歩くこととかしゃべることといった、生活を楽しくさせるちょっとしたことは、すべて神によって与えられたことである。主イエスはこういったことの中に生きておられた。主は神の御子としてこういったことの中に生きられた。その主が「弟子はその師にまさらない」と言われたのである。
 浅い事柄の中に私たちを守ってくれるものがある。私たちは表面的で常識的な日常を常識的に生きる必要がある。深い事柄がやってくるとき、神はそういった事がらを日常の浅い関心事とは別に私たちにもたらされる。深みを神以外の誰にも見せるな。私たちはあまりにも深刻で、自分の評判にあまりにも極端な関心を持っているため、日常の浅い事柄においてキリスト者として振舞おうとしない。
 神以外はだれをも深刻に受け止めないと心に決めなさい。そしてあなたがかつて知り得た最悪のぺてん師として関係を持たないようにすべき最初の人間は――あなた自身である。

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いかにして知ることができるか (10月10日)

『父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』マタイ11:25

  霊的関係においては徐々に成長するということはない。霊的であるか、否かのどちらかしかない。神は私たちを罪から次第々々にきよめるのではなく、私たちが光の中におり、光の中を歩んでいるなら、私たちはすでにすべての罪からきよめられているのである。従順が鍵であり、それがなされるや否や関係は全きものとなる。従順から一瞬でも離れるや否や、暗闇と死が即座に始まる。

 私たちの従順によって開かれるまでは、神の啓示はすべて封じられている。哲学や思考によって開かれることは決してない。あなたが服従するや否や閃光が投げかけられる。悩むことによって神の真理に達するのではなく、そこに身を沈めることによって見出しなさい。真理を知る唯一の方法は、それを見つけようと努力することを止めて、生まれ変わることだ。神があなたに示しておられることで神に従いなさい。すると直ちにその次のことが明らかになる。聖霊について何冊もの本を読んでも分からないことが、五分間思い切って神に服従するとき白日のごとく明らかになるだろう。「こういったことは、ま、いつか分かるようになるだろう。」と思っているかもしれない。そうではなく今ただちに分かるのである。勉強したから分かるというのではなく、従うことなのだ。わずかの従順で天が開き、神の最も深遠な真理がただちにあなたのものとなるのだ。あなたがすでに知っている真理に従うまでは、神についてさらに深い真理が啓示されることはない。「賢い者や知恵のある者」にならないように注意しなさい。

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自意識   (8月19日)

『私のところに来なさい。』マタイ11:28

  キリスト・イエスにあって充実したいのちを生きることが神のみこころである。しかしそのいのちが外部から攻撃を受ける時がある。すると無くなっていたと思っていた内省の世界に転がり落ちる。神にあるいのちの充実感を損ねる最初のものが自意識である。そして自意識は絶えず葛藤をもたらす。自意識が罪と言うのではない。それは神経質な性質や、あるいは新しい環境に突然出くわしたことによるのかもしれない。私たちが神にあって完全に満ち満ちている以下のことは決して神のみこころではない。主にある平安を乱すものは即座に修復されなければならない。それを無視することによって修復できるものではなく、イエス・キリストのところに来ることによって修復されるのである。主のところに来てキリストを意識する心が生まれることを願うなら、私たちが主にとどまることを学ぶまで、主はいつもその願いに応えてくださる。

 キリストにあるあなたのいのちが決して裂かれたままにしておかず、そのことに直視するのだ。どこからほころびたのか、友人かあるいは環境の影響によってあなたのいのちが裂かれたのか、主と一つであるあなたのいのちを割いて自分を個別の者として見させているものは何か、見極めなさい。霊的に正しい状態にあること以上に重要な事はない。偉大な解決法は単純なものである。「私のところに来なさい。」である。私たちの知的、道徳的、霊的な本質の深さはこの言葉によって試される。私たちがイエスのところに来るよりも議論をしようとするのは、それだけ私たちが本物でないことを示している。

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「父」が聞いてくださる祈り

『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。』ヨハネ11:41

 神の御子が祈られた時、ただ一人の方だけを意識されていた。その方は御子の「父」である。神はいつも御子の祈りを聞いてくださる。もし、神の御子が私の中に形作られているなら、「父」は常に私の祈りを聞いてくださる。神の御子が私の朽つべき肉体に現れされていることを知るべきである。「あなたがたのからだは聖霊の宮です。」つまり、神の御子を宿すベツレヘムである。神の御子はわたしの中で生きる機会を得ているだろうか。神の御子が地上におられた時に生きられたと全く同じように、御子のいのちの真の素朴さがわたしの中で生きられているだろうか。普通の人として日常の様々な出来事に接する時に、「父」に対する神の永遠の御子の祈りがわたしの中で祈られているだろうか。「その日にはあなたがたはわたしの名によって求めるのです・・・。」その日とはいつのことであろうか。聖霊が私の心に入り、私が主と実際にひとつにされた日である。

 主イエス・キリストはあなたの人生に十分満足しておられるだろうか。それともあなたは霊的なプライドを持っているのではないだろうか。常識で神の御子を隅へ決して追いやってはいけない。常識とは神が人間に与えられた賜物である。しかし常識は神の御子という賜物とは異なる。超自然の感覚が御子の賜物である。決して常識を王座に据えてはいけない。御子は「父」に気づく。しかし、常識は「父」に気づいたことはないし、これからも気づく事は決してない。私たちの普通の知性は内住の神の御子によって変えられない限り、神を礼拝することへは決して向かわない。この朽つべき肉体が神に完全に服従し、神が絶えずそれを通して働かれていることを知るべきである。私たちは主のいのちが絶えず現れるように、イエス・キリストにそのように信頼しつつ生きているだろうか。

 

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